朝陽伝説の皇女―ワカヒメ
ヒルコヒメ
ワカヒルメ
ニウツヒメ
シタテルヒメ
トシノリノカミ
いくつもの称え名を持つワカヒメは、九州から東北に掛けて多くの神社で祀られています。
日本の国史から姿を消しても足跡が絶えることがない神秘の女神なのです。
その秘密は、神功皇后、弘法大師空海などの篤い崇拝を受けたところにあるかもしれません。
また、御兄弟であるアマテルカミやソサノオに信頼された神さまであったのです。
みちびきの神と言われるワカヒメの足跡をたどり隠された日本の宝物を開いてみたいと思います。※それぞれの神社HPより引用
ホツマツタエにはワカヒメのことが多く書かれています。
その情報を参考に今に残る由緒を求めます。
生家である筑波山神社(茨城県)
御祭神 筑波男大神 伊弉諾尊 男体山871mに祀る
    筑波女大神 伊弉冊尊 女体山877mに祀る
摂 社 稲村神社(天照大御神)
    安座常神社(素盞鳴尊)
    小原木神社(月読尊)
    渡神社(蛭子命)
※フタカミの御子様すべてが揃われています。トヨケ神の娘イサナミの婿に少々身分の下がる家のイサナキを迎えてアマカミとしたためにフタカミと呼ばれた。
厄歳のヲエ落としのため筑波山から3歳の時に「捨て」られ、それを「拾った」住吉大社(大阪府)
住吉大神は海中よりご出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな神として崇敬されてきました。
奈良時代、遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事を祈りました。
古来より住吉大社は白砂青松の風光明媚なところから、万葉集や古今和歌集などの歌集に数多く歌が詠まれております。
特に平安時代からは、歌道を志して参拝する人々も少なからず、献詠もまた数知れぬという有様でした。境内にはたくさんの歌碑・句碑が奉納されています。
有名な和歌としては、「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代へぬらむ」(古今和歌集)があります。この歌は、神楽の曲として、今日でも歌われています。
住吉大神が草を敷かずに苗代をつくる方法を教えたという伝説により、古くから「農耕の神」として篤い崇敬を受けてきました。
古い時代の農耕は当時の産業を代表するものでしたから、住吉大神は「産業の神」と申し上げてもよろしいわけで、現在は農業関係者のみならず、商業・工業関係者からも深く信仰されております。
神功皇后の新羅遠征(三韓遠征)神話に由来します。神功皇后は住吉大神のお力をいただき、御自らも弓鉾をとり、大いに国威を発揚せられたとあります。
また、神功皇后は住吉大神の御鎮斎に際し、その警護のために土師弓部(はじのゆみべ)十六人を当社におかれたといいます。その故事にちなんで、邪気退散・天下泰平を祈願し、御結神事(お弓始め)が新春に行われます。
※イサナキの信頼する臣だったようで、3歳のヒルコヒメの育ての親として選ばれました。
12歳ごろまで育てられた廣田神社(兵庫県)
御主神の御名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と申し奉り、即ち伊勢の神宮の内宮に御鎮座の天照坐大神の御荒御魂に坐しまし、神功皇后御征韓の時御霊威を示し給える大神なり。又御脇殿奉祀四社は御主神に尤も縁由深き神々にして古くは併せて廣田五社と称せり。
廣田神社は、神功皇后摂政元年(西暦201年)、国難打破の道を示し、皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照大御神の御神誨を受けた神功皇后(第14代仲哀天皇のお后・右の出陣図参照)により、御凱旋の帰途、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に大御神の『荒魂』を国土の鎮め外難の護りとして鎮め祭ったと、『日本書紀』に記されている兵庫県第一の古社です。
※名の由来はワカヒメを「拾った」神社だから。
神宮皇后の篤い崇拝
和歌のふるさと玉津島神社(和歌山県)
玉津島社の創立は上古(じょうこ)ときわめて古く、社伝には「玉津島の神は『上つ世(かみつよ)』から鎮まり坐(ませ)る」とあります。玉津島一帯は玉出島(たまでしま)ともいわれ、いにしえ、満潮時には6つの島山(玉津島山)があたかも玉のように海中に点在していたとされます。そして山部赤人の玉津島讃歌に「神代より然ぞ貴き玉津島山」と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところとして崇められてきました。
稚日女尊(わかひるめのみこと)は、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子であり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹神です。元よりこの地におわす神で、後世、丹生都比売神(にうつひめのかみ)の御名でも呼ばれています。
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は神功(じんぐう)皇后です。皇后が海外出兵された際、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわされたため、皇后は稚日女尊を篤く崇拝されました。戦勝また航海安全の御恩に報い、稚日女尊の御分霊を今の和歌山県かつらぎ町天野の地に丹生都比売神としてお鎮めしました。後に皇后ご自身も、卯の年、卯の月に玉津島社に合祀されました。
廣田神社と同時に創建 生田神社(兵庫県)
稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神(あまてらすおおみかみ)の和魂(にぎみたま)あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。
神功皇后が海外外征の帰途、今の神戸港にてお船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ、「私は活田長狭国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られたと伝えられます。
同じくこの時に、天照大神の荒魂(あらみたま)が西宮市の広田神社に、事代主神(ことしろぬしのかみ)が神戸市長田区の長田神社にお祀りされたと伝えられています。
香良洲神社(三重県)
稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ、第二十九代欽明天皇の御宇(今よりおよそ1,400年前)、生田の長峡(現在の神戸市生田神社)から勧請申し上げおまつりした神社です。
そもそもこの神様は神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)が三韓御征討凱旋のみぎり、難波の海(今の大阪湾)が荒れて船先がみだれた時、この神、その軍船を御導き給い無事御上陸になられたので、住吉、長田の神と共にこの神を生田におまつりにになられたのが今の生田神社であります。
降って欽明天皇の御代にいたって一志の須で(浜洲)夜な夜な御神火が見えるので、地人(里人)神意を畏れ、騒ぎも一通りでなく、これを知った一志直青木といえる人が一夜神のみこころを仰がんものと海辺に出て御神誨を乞い奉ったところ、吾は生田の長峡に坐す稚日女神である、姉神の在す、神風伊勢のこの地に鎮まりたいとの御告げがあり、青木恐懼直ちに生田より御勧請、祠を造営し祭祀を行い、長くこの地に奉斎することになりました。
この神、姉天照大御神の御意により機殿にまして、きぬを織らせ給うおり素神が天班駒の膚をはぎその機殿に投げ入れ給うたため傷つかれ神去り給うた。その時の御言葉により婦人の守護神としての信仰厚く、尚機殿にまして機織のことに従事せられたことにより、後世紡績界にもその信仰深く、また神功皇后の軍船を守護せられお導きになられたことをあがめ航海の神、海の守りの神としての信仰もまた非常に厚いのである。
※ホツマツタエによるとソサノオの無体で亡くなった機織り姫は、アマテルカミの妻セオリツヒメホノコの妹ワカヒメハナコであった。
香良須神社(愛知県豊田市)
雅日女命 祭神記不詳
 案ずるに往古伊勢国雲津より勧請すと言う天照大御神の最も親愛し給う神にして神御衣を織らしめ給えり。依て婦女子に対する芸工芸、婦人病等守護し給うなり。
若宮八幡社 末社香良洲社
天武天皇朝の創祀とも、大宝年間(701~704年)に現在の名古屋城三の丸の地に創建されたとも伝わり、延喜年間(901~923年)に再興されたという。かつては天王社(現在の那古野神社)と隣接していたが、天文元年(1532年)の合戦で社殿を焼失し、天文8年(1540年)織田信秀により再建され、慶長15年(1610年)の名古屋城築城の際に現在地に遷座
阿波神社(三重県)
創祀年代は不明。『日本書紀』神功皇后の条に、神功皇后が、神の告げを聞かずに死んでしまった仲哀天皇の斎宮を小山田邑に造り、さらに、その神々の名を神託によって聞き出した時、「尾田の吾田節の淡郡(あわのこおり)にいる神である」と答えられた。この「小山田邑」が当地であり、淡郡の神が当社祭神であるとする説がある。
また、伊賀の阿波が、阿波君の本貫とし、阿波君の氏人が、その祖神(息長田別命)を祀ったとする説もある。中世に、阿波越後という郷士が、杉尾白鬚神を合祀したため、椙生社・白鬚惣社・杉尾大明神などとも呼ばれていた。
『伊賀式内社考』には阿波大明神とも号し祀るところ、神功皇后なりとある。
石清水八幡宮生田社
平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました。
天野八幡宮(岡山県)
高皇産霊神 神皇産霊神 稚日女尊 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
八幡古表神社 配神(福岡県)
中津川(山国川)の辺に玉手翁(たまてのおきな)という者が住んでいた。神にも等しい美しい心を持った人格者であったが、欽明天皇六年九月二十一日吹出の高浜を散歩していたところ、美しい白雲が西の方より飛来し明月の如く光り輝く女神が乗っておられた。翁はすぐに神である事を察し畏れ拝んだ。すると次のような神託があった。
「吾は息長帯姫なり。昔、三韓征伐のおり軍卒集まり難しにより諸国を歴視し此の所に来りて海辺の石(後、皇后石と呼ぶようになった)の上にて諸国の神々を祭る。よりて軍卒多く集まり船をも調達、険浪を渡り三韓を伐つ。しかるに後世これを知る者なし。今よりこの良き地に住みて永遠に国家国民を守護せんとす。汝此の所に社を建て吾を祭れ」
翁は平伏して再拝、早速社殿を造営すべき土地をさがしたが、自分の支配するこの土地が神様の選ばれた所だけあって、人々も心豊かで海陸の幸にも富んでいる事に大そう喜んで、吹出の高浜の島の最も荘厳な所を選び、社殿を建て、息長大神宮と称してお祭りした。
宇佐八幡宮摂社養蚕神社
全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。
宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。
これが宇佐神宮の創建です。
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。
三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました。
応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれています。
丹生大師空海の”みちびきの神”
丹生都比売神社(和歌山県)
紀ノ川より紀伊山地に入り標高四五〇メートルの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞 にうだいみょうじんのりと 』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命 わかひるめのみこと とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后 じんぐうこうごう の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。
丹生大師丹生都比売神社(三重県)
聖武天皇が東大寺大仏殿の建立のさい、水銀の産出をこの地の神に祈ると忽ち水銀が湧出したので、丹生明神と名づけた。又、嵯峨天皇が降雨を祈ったら霧雨があり、晴れを祈ったら、晴れたという故事により、丹生大明神は祈雨、祈晴の神ともいう。
丹生官省府神社(和歌山県)
丹生官省符神社の草創は古く、弘仁七年(816)弘法大師(空海)によって創建されたお社であります。
空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出で立ち各地を行脚され途中大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。
猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。此の処は実に天下無双の霊地であり、空海は、此の処を教えくださった猟師は、①神さまが姿を猟師に現し②化現狩場明神となり神託として一山を与え下さったものであると③想念の内に感得されたのでした。その事を嵯峨天皇に上奏し、天皇は深く感銘され、高野山を空海に下賜されたのでした。
狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。仏教・真言密教の布教の基となった狩場明神との運命的な出会い。空海はその思いを④政所として⑤慈尊院を開いたとき、参道中央正面上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の壇と併せて萬年山慈尊院と称されました。
空海によって創建鎮座爾来、御社号も慈尊院丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、県内外を問わず尊崇を受け⑥官省符荘(荘園)の総社として栄えました。
丹生酒殿神社(和歌山県)
丹生都比賣大神が紀の国三谷に御降臨あそばされてより氏神と称え奉られ、明治6年4月1日村社に列し、昭和10年6月18日上天野村官幣大社丹生都比賣神社の攝社として合併され、戦後独立、現在に至っている。
丹生都比賣大神(右坐)。
天照大御神の御妹であらせされ、稚日女命とも申し上げ、神代の昔、御子高野御子と共に大和地方や紀伊地方を御巡歴遊ばし、人民の為に農耕の事、糸をつむぎ機を織る事や煮焚の事など衣食の道をはじめ教え導かれ、特に木の川(紀の川)の水を以て酒を醸し奉りてより、丹生酒殿神社と称えられる。
最後に天野の現地に御本居を御定め遊ばし、御鎮まりなされたのである。
丹生と云う神社の多き事、伊都郡の郡名、和歌山県の県名など、皆御神恩や御名を忘れない為の永久への記念的称呼たることを思わねばなりません。
日本武尊勧請
麻賀多神社奥宮(千葉県)
日本武尊 ご東征の折  大木の虚に鏡をかけ 根本に七つ の玉を埋めて 伊勢神宮に祈願さ れました 命は「この鏡をあがめ 祀れば永く豊作が続く」との教を きゝ その鏡をご神体として この 地に稚日霊命を(手里神社)祀り  その後 ご霊示によって 七つの 玉を掘り出して稚産霊命(台方神 社)を祀り 共に麻賀多眞大神と して 里人の崇敬を指導されてか ら 益々豊年と楽土が続きました。
ワカヒメ坐します磐座のある越木岩神社(兵庫県)
東六甲山麓唯一の霊場で、天然記念物の森におおわれた霊験あらたかな神社です。
創立不詳といわれるぐらい由緒深く、甑岩を霊岩とし、今なお全国的に信仰を集めています。
また、古代信仰の磐境(いわさか)・磐座(いわくら)祭祀と呼ばれ学術上でも貴重とされています。
今を去る、千年前の延喜式神名帳に大国主西神社が記録されていますが、そちらが当社であろうと云われています。正保年間(西暦1644年頃)に社殿が再建され、明暦二年(西暦1656年)の八月十六日に円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称しました。
以後、数回社殿は修復されたましたが、現在の見事な片削破風羽流造のご本殿は昭和十一年に、また、拝殿は昭和五十八年に御造営となったものであります。
歌謡に『杜のふもとに甑を立てて、招く湯の里ヨホホイ越木岩』とうたわれて、越木岩・苦楽園・夙川・鷲林寺・柏堂という関西の高級住宅地の産土神(うぶすながみ)としてあがめられていいます。
※磐座があることから考えると、蛭子大神とはえびす様ではなくヒルコヒメなのではないかと思われるのですが。。。一方蛭子大神の総本山である西宮はえみす顔の事代主さまではないでしょうか。(所見)ホツマツタエによると事代主さまは広い視野と深い洞察力をお持ちの素晴らしい人格者のようですね。
セオリツヒメと共に岩戸落葉神社(京都府)
落葉神社を堕川神社にあてる説もあるが、確証的なことはなく未詳社とするのが適切であろう。堕川神社の祭神、由緒など特に伝わっていない。
また落葉神社は大柴神社の論社でもあるが、これも確証的なものではない。
岩戸落葉神社は、小野郷の産土神で、岩戸社と落葉社の二社からなっている。晩秋の強い風が通り過ぎると、銀杏紅葉が境内を一面黄色に埋め尽くし、紅葉の名所でもある。落葉社は小野下野ノ町の氏神で、「源氏物語」の落葉の宮とも重ねて信仰されてきた。清滝川・岩谷川・笠谷川の三川が合流する場所にある。「墜(おち)川神社」が、いつからか「落葉(おちば)神社」と呼ばれるようになったという。
本殿が2棟並んでおり中央大きい方が岩戸神社、向かって右ややこぶりが落葉神社である。
今宮戎神社(大阪府)
今宮戎神社は大阪市浪速区恵美須西一丁目に鎮座し、天照皇大神・事代主命・外三神を奉斎しています。創建は推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお祀りされたのが始めと伝えられています。
春日大社 赤乳(あかち)神社白乳(しろち)神社遥拝所(奈良県)
御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。
婦人病を治すご利益があるとされ、赤乳神社は腰から下、白乳神社は腰から上の治癒とされています。
折井神社(鳥取県)
古くは折井大明神とよばれていたが、明治元年に折井社と改称された。その後明治7年に再び改称されて、現在の呼び名の折井神社となった。
祭神は「稚日女命」という女神である。「機織りの神」「裁縫の神」とされる。したがって神号を「織り衣」とし、「折井」の文字をあてたのではないだろうか
日吉神社末社(鳥取県)
創立年月不詳、古来山王宮と号し郡内の旧社にて神領として若干の神田ありて、 米高
数石及び幕提灯等をも寄附せられ旧藩中特別に崇敬あり、然して郡中五穀豊穣風水干疫の
災を除去すべき祭祀を命せられ、累年之を執行ふことありしが、明治五年三月郷社に列せら
れ日吉神社と改めらる、社地内に佐奈咩サナメ池あり、汚穢不浄の者此池水を汲み嗽く時は
濁水となる、或いは寒中氷雪一円に張り其の凍氷の強弱によりて年中晴雨五穀塾否の吉凶
を卜うすること大古よりの故事なり、付近に摂社日御碕神社あり、衆庶の信仰厚し、此の神天
佐奈咩神なりしを中古神仏混淆の際改称して山王二十一社権化と称あれど、嘉永年度の神
名簿にも記載ありて神主安江陸奥、禰宜塚田才之進、神子櫃田かん等權頭の三職勤務祭神
を行ひしこと確証あり、御崎神社は全く佐奈咩神の元鎮座地にして、此所より当社地に遷転し
奉りしものにて、渡御の道筋を神事道と唱へ、供奉の神人山峰を越へし古道筋に輿懸岩、烏
帽子岩、笠懸松等の名残れり其道続きをキヅキ谷、神楽座神通と唱ふ明治元年十月神社改
正の際天佐奈咩神と決定せらる、明治四十年十二月十九日神饌幣帛料供進神社に指定せら

シタテルヒメが祀られる壺宮神社(鳥取県)
昔の住所は西伯郡高麗村大字上萬じょうまん字澤形。 「澤形さわがた」とあるように澤形神社がありました。また「宮田」という字もあり宮田神社もありました。宮田神社のご祭神が下照姫命したてるひめのみこととされていました。安産の神さまで医療・医術の知識も豊富な神。
珍しくご夫婦で祀られる植松神社(鳥取県)
誉田別命(ほんだわけのみこと) 思兼命(おもいかねのみこと)
稚日女命(わかひめのみこと) 大躰神(だいだいじん)
この大原千町は昔、大躰神という神さまが開拓されました。オオムカデに度々悩まされていたところを大躰神さまに助けられた大蛇は、そのお礼にと、一夜にして、この大原千町へ大山から流れる井手川を作って息絶えました。
当神社には見事な大蛇(龍)の彫り物があります。この大蛇は、銘柄米「八郷米」を育む大原千町の農耕の守り神。
方結神社 配神(島根県)
祭神は、スサノヲの子クニオシワケです。
クニオシワケについては、出雲国風土記に片江についての地名伝承が記載されています。
クニオシワケは、この地にで、次のように言った。
 「この地は、国形宜し。故に方結(かたえ)という。」
安屋咩(あやめ)神社(島根県)
勧請創立年代は不詳。「安屋咩」は「あやめ」と読み、稚日女命を祀る。『安来市史』『神国島根』に拠れば延享五年の棟札あり。明治七年に廃社となり北方の住吉神社に合祀となるが、明治一〇年に復旧存置して現在に至る。
日原神社(島根県)
出雲風土記所載の神社にして御祭神大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)、天之日腹大科度美神(あめのひばらおおしなどみのかみ)、若盡女神(わかつくしめのかみ)を祀り、古くより伊勢宮、伊勢大明神、日原大明神とも称され俗に鏡の宮ともいわれ延命息災、五穀豊饒、産業の守護神、安産の守護神として信仰をあつめてまいりました。
 御祭神の大日霊貴尊は天照大神の別名で日本の総氏神様、皇室の御租神として伊勢の皇大神宮にお鎮まりになっています。こうした御祭神から伊勢宮、伊勢大明神と呼ばれていました。
 天之日腹大科度美神は大国主神の後裔、布忍富鳥鳴海神(ぬのおしとみとりなるみのかみ)の妃、若盡女神の御子神として此の地「日の原」にて御誕生になり、この地に御鎮まりになったと伝えられています。その誕生の折り、産湯池の水を汲み産湯としお使いになられたと伝えられます。
日御碕神社摂社立花神社(島根県)
経島に御遷座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞嗚尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり、此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり、命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと云う。
斎神社(岡山県)
稚日女尊 天宇受売命 倭姫命
由緒沿革  祟神天皇の御代に勧請したという。本神社をイツキと称するのは、織部、勝部、祝部に縁の深い弓月の君、即ち融通王をその部族が奉祀したものであるからともいう。国司が総社を建立して以来、総社に神幸せられて奉幣に預かったという。
日出神社(徳島県)
稚日女(わかひめ)尊。寛政以前の奉祀と伝う。流行病に霊験あらたか
    八幡神社裏山山頂に鎮座する。
滕(ちきり)神 社(香川県)
滕神社の祭神稚日女命は、天照大神の妹で、大神の御衣織女(衣服を織る女)と伝えられている。 この神社は、むかしは今の香川町浅野の。唐土に祀られていたが、万寿年間(一〇二四~一〇二七)に今は平池となっているところに松原があり、そこに遷された。久安年間(一一四五~一一五〇)に社殿の周りにため池が築かれたので、大洪水があったときは社殿がたびたび水に浸かることがあった。そこで、今の浅野村字岡の上に遷され、その後、平池の北東である雄山に遷された。それからは、岡の上の社殿のあった地を古宮さんとよんでいる。
宗像大社摂社和加神社 和歌神社
『末社由緒』(現地案内板より)
御本殿周辺の二十三の末社は、延宝年間(約三百年前)に整備されたものです。
これは当時、宗像郡全域及び、鞍手郡、遠賀郡、糟屋郡の一部に鎮座されていた、七五社、一〇八神を此の所に元宮としてお祀りしたもので、神郡宗像の地に祀られた神社がすべて宗像大社を御本宮と仰いだ信仰の姿を今に伝えています。
※宗像三女神のお社は全国で6000カ所にも上るそうな。なぜ?
若一王子宮(高知県)
社記によれば、村上永源上人が紀州熊野から十一面観音のお厨子を背負って来たといわれる。秋の大祭(11月8日)に奉納される獅子舞は県の無形民俗文化財に指定されている。
※熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。
※若一王子、若宮と名が付く神社には多く祀られている。主祭神なのかもしれない。
クローバー祭神や由緒のわからない小さなお社、祠も多く、失われている情報が多いです。
調べている中で、ワカヒメでは?と思われるいくつかの神社も記録のため載せておきます。
神上がりして後贈られた「歳徳神」の総本山・葛木御歳神社(奈良県)
ご祭神は御歳神(みとしのかみ) 相殿 大年神(おおとしのかみ)高照姫命(たかてるひめのみこと)
御祭神はご本社の背後の美しい御歳山に お鎮まりになって、金剛山の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。
古くは神奈備(かむなび-神の鎮座する山や森)の御歳山に自然石の磐座(いわくら)をたて、神を迎えてお祀りするという古式の形式だったと思われます。
現在の本殿は、春日大社の本殿第一殿を移築したものであります。
御神名の「トシ」は穀物特に稲、またはそのみのりをさす古語で、稲の神、五穀豊穣をもたらす神として古くから尊崇されています。
また「トシ」は年に一度の収穫を基準とした時の単位であることから、事を始める時にお祈りするとよいとされています。
※御歳神と歳徳神は同一と見られています。
比売許曽神社(大阪府)(摂津名所図會大成巻之一)
 東小橋村二あり。今の地は當村の生土牛頭天王の社にして、兵乱の時天地を失ひ此天王の社の相殿にうつし祭ると ころなりとぞ、奮地は次の巻二委く出す。
 社記云祭神下照姫命にして人王十一代垂仁天皇の御宇勧請し給ふ所となん故に延喜式に東生郡四座の其一なり名 神大月次相嘗新嘗の祭祀行われし所とぞ按するに前にいふ磐船社と称して下照姫命を祭れる神社あり。
 一説にハ是を以て延喜式に載る比売許曽神社なりといへり其是非詳ならず是正しく上の宮下の宮或いハ本宮新宮と称するの類ならん乎尤後世磐船社と称する地は高津宮の内に営み給ふ社の古蹟なりされバ今の比売許曽社ハ垂仁天皇の勧請にして原より在し神社ならんか先今其神社の存するを以て社説に随ひて次の巻に委く出す偖亦先版及ぴ社記にも日本紀垂仁巻に出たる異國より渡れる童女の難波にいたりて比売許曾神と爲といへるをも下照姫命に合せて言り是ハ大なる誤なり下照姫命ハ神代巻に所謂味耜高彦根命の御妹にして則東生郡比売許曾神なり古事記応神の條に新羅国の嬢子小船にのりて日本に逃來り難波に留る此注二云此者難波の比売許會社に座す阿加留比売といふ者なりとご有垂仁応神の御宇の違ひありといへども事ハ同説なり又赤留比売社といふハ神名帳に佳吉郡赤留比売命神社とあり新撰神代記云平野三十歩社ハ佳吉の末社なり延喜式に佳吉郡赤留比売命神社是也云云然れバ下照姫命と赤留比売命とハ別にして社も両所に存せり思ひ惑ふぺからず尚委くハ其地所の條に著すぺし。
※シタテルヒメを祀るお社は殆どが、オオクニヌシの娘のシタテルヒメとなっていますが、元祖シタテルヒメはサホコとネの国を治めた功績を称えられたワカヒメのことなのです。オオクニヌシの弟嫁であるオクラヒメは和歌の手ほどきを受けたワカヒメによって贈り名されたものです。さて、本当はどちらなんでしょう?オオクニヌシはオオナムチの息子であり、その妹の名はオクラヒメではなくタカコヒメです。
最終更新 2016年4月30日