最終更新日2015.6.1

二日目の行程です。
神社19カ所目伊雑宮。53番目
17時36分到着。
暗くなってからのご参拝はご遠慮願います。というような但し書きがあったかと思いますが、まだまだ明るいので大丈夫ですね。ココが予定の最後の神社です。
駐車場ですれ違った若い女性の二人組。6時過ぎに帰る時、電車で来たらしい1人旅の若い女性と入れちがいになりました。
パワースポットとして神社参拝ブームであることを実感する一幕です。
籠神社―比沼真名井神社―外宮―伊雑宮が一直線状にあり、特別の刻印が一致するとのことでパワースポットになっているようです。

ホツマツタエによると、丁度六ハタレが全国で反乱を起こしていた時アマテルカミはこの伊雑宮にタカマを置いて政りごとを行っていたのです。代が変わると宮も移るのが普通だったようで、オシホミミはタガ宮(滋賀県)⇒ツボ宮(宮城県)その子ホノアカリはイカルガ宮⇒アスカ宮、弟ニニキネは北は日光、南は鹿児島といくつもの場所を移って新田開発をします。民が豊かに暮らすために日本全国を耕していく開拓時代だったのだなと思われます。

アマテルカミご在世時の宮ですから、お伊勢参りの足を延ばしてみようと思いました。
パワースポットだと言われていることにも興味がありましたし。

旅の最後のライトピラリングは、特別なものになりました。
拝殿で手を合わせていると身体が揺れ、浮き上がりそうになり驚いて目を開けてしまいました。
時間も時間だったし、早々に切り上げて玉砂利から降りました。えっ。やばっ。と。
何が起きたのでしょうか。無重力空間もしくは何かの入り口に足を踏み入れた?
周辺から原因が何か探れるかな。
もうこれで終わりだとゆったりした気分で境外社ポイントを回ってみました。

ココには倭姫が関わる「天井石」が存在していたのですね。

発掘された時は4m×3mで厚みは50㎝とかなり大きな石になります。ここのものはその一部です。その石の下から勾玉やらカガミやらが出てきたそうで倭姫さんの遺跡ではないかとのことだったけれども、ココにあったモノが持ち去られ官憲によりこの地の鑑定が禁止されそのままになっているそうです。ちなみに天上石を調べると横穴式石室の天井に用いられたものと辞書にあります。

倭姫さんではなくアマテルカミの遺跡という事もありうるという事ですよね。
何らかの祭祀に使われたものなのかもしれません。
ホツマツタエの28あやにアマテルカミの遺し文があります。伊雑宮でセオリツヒメ以外の12人のキサキは全員神上がりしているとあります。石室は、お妃さま方の祠であったかもですね。
アマテルカミとセオリツヒメは晩年お二人でアサヒ宮に移られ、アマテルカミの神上りに備えたようです。
 
石室は一定の法則の基に方角などを決めて造られるようなんですね。
神上がりするということは儀式なのです。どっちを向いていてもいいというものではないでしょうし、設置ポイントは必ず意味があるはずなんです。そうした遺跡の痕跡を見てしまうと、お宮が祈りの施設でもあるということあらためてを思い出させてくれます。現在でも毎日の祝詞、祈りは天皇の大切なお役目だと聞いています。ですから神社は祈りという周波数がかけめぐる神聖な場なんですね。まあ、言うまでもない話なんですけど。神社は最強のパワースポットでアースパンクチャーだと言われる所以です。

アマテルカミの御父上御母上のお社です。54番目

コンプリートはここ。
勝負石の由来はわかりません。
お参りを終えると夕日が屋根に消えていくところでした。

神社旅を締めくくるのように、数日後友人と話をする機会がありまして。
弥彦神社の宮司の血縁に当たるその友人が言うには「寄付金をもらって神社由緒を書きかえた時期がある」というこということです。明治の時に祭神がかわったり、神社が統合されたこともありますが、持統天皇の時代にもかきかえが為されたことなどをおしえてくれました。
全国くまなく行われたということですから、書きかえには相当な人と労力と金品をつかっているようです。※曰く、『旧事本紀』は古来からの神社史(とある元伊勢)に近いとのこと
私の神社巡りはホツマツタエを杖として神社の本質的なエネルギーを体感しアースパンクチャーとしての御座所を結晶させることが目的です。
ホツマツタエを杖としている理由は「なぜこの神様がここに祀られているのか」「神様同士の関係はどうなっているのか」という素朴な疑問に対して多くの答えがあるからです。
それでもすべての疑問が解けるわけではありません。
だから現地へ行ってパズルのピースを探して歩くんです。
あからすば
なまずかないし
よろかつら
いふきくまのと
たけのひれ
たましのるたつ
しらもたか
すくなこたぬき
ひみねいし
ひもろむらさき
ぼんつかい
じゆれいさわに
かんむすび     T

友人との話のなかで籠神社、真清田神社、ホノアカリの話題が出ました。
今それがテーマなのかもしれません。
真清田神社にはまだまだ謎がのこったままですし、名前が浮上したのにも意味があるんでしょう。
けれど伊雑宮とそのテーマはどんな関係があるのでしょうねえ。。。
不思議なことは、籠神社、真清田神社両社ともホアカリノミコトが祭神であるということですよね。特に籠神社は元伊勢で奥宮に真名井神社 があるということは、主祭神はアマテルカミのはずです。由緒によると、豊受大神を邇邇芸命の兄神である彦火明命が祀っていたとあります。アマテルカミと豊受大神が伊勢に遷り、真名井に遷宮するに際して祭神を海部氏(あまべ)の始祖に改めたという事です。
Wikiより
❏社伝によると671年に祭神が籠に乗って現われたという伝説から神社名と祭神を彦火火出見尊に改めて真名井から移っている。(彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)による)
❏27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改めた。
❏神職は海部氏で、伴造氏族。伴造には、秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのふみ)など代表的な帰化氏族がある。他に、弓削(ゆげ)、矢集(やずめ)、服部(はとり)、犬養(いぬかい)、舂米(つきしね)、倭文(しとり)などの氏がある。
❏現存では日本最古の系図「海部氏系図」(国宝、平安時代の書写)が残されており、彦火明命を始祖(初代)として82代の現宮司までの名が伝えられている。重要文化財で、国宝指定を受けている。※記紀や『旧事本紀』などにもない独自の伝承にもとずく
❏海部氏一族が丹波国造を担ったとも伝えているが、丹波国造について『先代旧事本紀』の「国造本紀」では尾張国造と同祖で建稲種命四世孫・大倉岐命を祖と記し、同書「天孫本紀」では饒速日尊(天火明命)六世孫・建田背命を祖と記すように、天火明命を祖とする尾張氏系と彦火明命を祖とする当一族との関連性が見られる
❏例祭は「葵祭」と呼ばれる
建振熊命という人は神功皇后の新羅征伐での功労がありさらに凱旋帰還する際に起きた反乱を鎮圧したのが息子の方で、この時に海部直(あまべあたい)の性を賜ったという事です。海部直は応神朝に丹波、但馬、若狭の広域支配者として活躍したということです。
そして神官として就任するのは記録に食い違いが見られることが指摘されていますが、およそ8世紀をまたぐ前後だそうです。祭神の変更はホノアカリの末裔という海部氏が神職を務めたからだったんですね。なるほど。
神社真清田神社についてはどうなんでしょう。
尾張氏の氏神様です。尾張氏をWikiで調べると、
❏始祖が天忍人命(あめのおしひと)が美濃・飛騨に拠点をもち、オトヨの時に尾張国造に就任する。(オトヨはホツマツタエ辞典でみるとタカクラシタの孫になります。)
❏ヤマトタケの時代には熱田に拠点を移し、代々大宮司を務める。住吉大社社家津守氏、籠神社海部氏と同族。
タカクラシタは越後におさまり、孫オシヲから次第に飛騨へ美濃へ尾張へと移って行ったと考えれば、真清田神社にもつながって行きます。
海部氏のご先祖を辿るとタカクラシタ(天香語山命)に辿り付きます。神武天皇の指令により筑紫、山陰を巡りスベシカドとして越後で反乱を鎮圧し、ヤヒコモリとして越後を治めたのです。その子孫が海部氏、尾張氏として幸わったのですね。
両家本来の始祖は本当はタカクラシタの天香語山命なのだと思います。
タカクラシタは、テルヒコホノヒカリの養子として一旦はアスカ宮にいたのですが継母に母になった叔母ともども追い出され、本当の父のいるハラミヤマにも戻らずおそらくは熊野の高倉(神倉神社)の麓にいついたのでしょう。
その後宮に呼び戻されますが、タカクラシタは戻らないのです。宮の名を「カグヤマ宮」と変えてまで呼び戻したかったホノアカリの起っての願いに応えなかったのです。
タカクラシタはこの一件を見てもタダモノではありません。天下の情勢を読むことにもたけており、フツノミタマを手に入れていることから霊的洞察力も優れているようです。だからこそ、神武天皇に見込まれて全国の見回り番のような役割を担いました。
その役割の中から山陰地方との地縁を築いていたのだと予測できます。だからこそ子孫は海部氏として日本海を仕切ることができたと思われます。
タカクラシタがキーマンですね。
とすると、やはり天香語山命を祭神とする弥彦神社を知りたくなってきました。
伊雑宮が思いのほか遠くまで話し及んでしまいました。
まだまだ何も見えてはきません。
二日間のツアーは予定通りに完結しましたが、三日目となる日に名古屋の若宮八幡宮を訪れる機会があり、紀伊半島ツアーを円環でつなぐ結びの一場となりました。
神社伊雑宮(三重県志摩市)
祭神 天照坐皇大御神御魂