神社ホツマツタエの中では「カシマダチ」といいます。なぜか、国盗りとか国譲りと言う言葉の方が耳慣れてしまっていますけれども。
カ=右、右の臣、防衛庁や警察
シマ=締まる、取り締まる
タチ=立つ、タダす
「カシマダチ」という言葉はオオナムチが出雲の国を繁栄させて朝廷を向こうに張るような権静を極め初めて国家転覆の危険が出始め、述べ11年を掛けて方向性を正す朝廷からの呼びかけの結果、出雲カミからツガルのカミに異動になったというお話の場面で出てきます。
国譲りとか国盗りというお話ではなく、「八重垣の剣をもって朝廷を防衛する任務に付く者の考え違いを正す」という意味が込められています。ですから譲るも盗るもなく、もともと朝廷の領地を守る守として配置されたものであったというのがホツマツタエが云うところです。
オオナムチの父であるソサノヲがその地位を得ました。それを受け継いだオオナムチは大物主となり繁栄を築きました。その様子は朝廷をも凌駕する勢いでした。よもや考え違いは無いものかと朝廷は人を出雲に送り出すのですがオオナムチに次々と懐柔されて戻ってきません。最終的に武力に長けたフツヌシとタケミカヅチを送りだしてその高慢な姿勢をたしなめようとしたのでした。
自らタカマのキミのように振る舞う父オオナムチをたしなめるクシヒコでしたが、父は聞く耳を持たずクシヒコは蟄居していました。ついにタケミカズチらが出動したと聞いてもうひとりの子、タケミナカタが出てきて言いました。「誰か我がクニを、忍び忍びに威さんや。出で我が力比べん。」
そうは言ってもタケミカヅチの威勢に怖じ気づき諏訪まで逃げるタケミナカタでしたが、「国譲り」「国盗り」といいたい気持ちがタケミナカタの言葉によく表れています。
しかし、そもそも死罪にも匹敵する罪を犯し下民に落ちたサスラオであるソサノヲに功を収めるチャンスを与えクニの守を任せた事の経緯をみるならばタケミナカタは思い違いも甚だしいのです。兄クシヒコの考え方がクニ全体の方向性で見るならば真っ当なのです。オオナムチ一族の思い違いを正そうというのが「カシマダチ」なのでした。
結果としてオオナムチは津軽に行き長生きをしてまたしてもクニを繁栄させました。
余談ではありますがその時にも自慢の心が出てくるオオナムチでしたが、またしても光の存在となったクシヒコにたしなめられています。
ニニキネが全国の新田開発を行い巡業した時に、ネノクニに居た猿田彦が先祖伝来の地をニニキネに譲り自分は伊勢にいったという事がありました。ニニキネが新田を次々と起こしてクニが広く豊かになったのでした。時はニニキネと兄であるアスカの宮との2朝並立する前の時代でした。
兄ホノアカリは全国をまわるニニキネの活躍を聞き及び大分焦ったのではないかと想像します。
富士山に見立てた香具山をアスカの地に築いたのでした。
ニニキネは初代アマカミと言われるクニトコタチの再来といわれるほどの方で、新田開拓のための灌漑などの開発をしてニハリ宮を豊かにしました。その方法で諸国をまわり新たな田を造って行きたいとアマテルカミに申し入れたのですが一旦は止められます。
弟の豊かな才能がアスカの朝廷を刺激し問題が起きる危惧をもったのかもしれません。才気旱魃な弟孫の人となりを身近において育てていたアマテルカミならば見抜いていたはずです。
そこは慎重でした。
しかし、伊勢で造った田が5年で実りはじめるのを目の前で見たアマテルカミは全国巡業を許します。ニニキネの訪問は全国で待ちわびられたのでした。
本家本流の朝廷であると自負するアスカの宮を継いだニギハヤヒにもなかなかに継子が授かりませんでした。タカクラシタを養子に迎えようとまでします。断られて左の臣ナガスネヒコは焦り、手ずから伝えられた者しか見ることを許されていない門外不出の秘書「ヨツギフミ」を盗み写し取ります。そのことがミヤザキに滞在するニニキネの曾孫神武の耳に入ります。
そのような身勝手な振る舞いが公になっても処分しないニギハヤヒでした。ヨツギ文のお蔭か、ミカシヤ姫との間にウマシマチを設けることができましたし。すこし優柔不断なところがニギハヤヒにはあったのかもしれません。
そのような身勝手な横暴を許してはいけない、と多くのカミの後押しを受けて、神武は大和討ちの準備に掛るのです。