神社どうも気になるタカクラシタ(天香語山命)です。
足取りを追っかけてみようと思います。
神社生誕地は不詳
高倉下イミナをタクラマロといいます。
タクラマロの実父カゴヤマの叔父に大山祗神(マウラ)がいます。テルヒコホノアカリ(アマテルカミの孫)が譲位された時につけられた32司の筆頭で、ホノアカリに付いて飛鳥の地にやってきます。タクラマロは神武天皇より二世代上に当たるのですが10歳も年が離れていない計算になります。カゴヤマのかなり遅くに生まれた息子だと思われます。アスカの地で生まれたのかもしれません。
カゴヤマの妹アメミチヒメが入内するも子を成しませんでした。
おそらくは後から入ったキサキのハツセヒメにも子がありませんが、そんな時にアメミチヒメの兄で右の臣のカゴヤマの子を養子に迎えます。焦ったハツセヒメはアメミチヒメとタクラマロを追い出してしまうのです。
はてなマーク。重臣の守りがありながらどうしてそんなことができたのでしょう?
追い出すって、どこに?
・・・白雪姫のような物語を想像してしまいます。
美しいアメミチヒメと憎い養子を化け物が出没するという高野の山に討ち捨て殺せと。
しかし、良心の呵責に耐えかねた家臣が熊野に逃がす・・・
事件が発覚した後、ハツセヒメは追い出されおそらくは協力した家臣も処分されたでしょう。

神社タクラマロが高倉下を名乗るようになったのは神倉神社を住処にしていたからです。

タクラマロについては熊野に落ちました。アメミチヒメも一緒だったかもしれません。
ハツセヒメがアマキミの怒りを買って今度は自分が宮を追い出されますが、その後アメミチヒメはキサキとして復帰しています。タクラマロはタカクラシタとして熊野に住み着くわけです。
ところで32司の一人にクマノクスヒの子(弟子?)アメトマミがいます。那智のワカミコといわれアマテルカミのハタレ討ちの際に活躍したクスヒです。ひょとするとタクラマロの宮落ちに関してはアメトマミが関係していたのかもしれません。
ハツセヒメの命を受けてタクラマロを熊野に落とし、その後クスヒのものとで養育した。。。
いずれにせよ経緯については不詳ですがタクラマロが神倉神社を拠点にしタカクラシタを名乗りました。そして神武東征の折、一旦は養子に入ったアスカ宮を糺す神武側に付き大きな功を立てます。
高倉下が祭神
神倉神社 和歌山県新宮市
熊野速玉神社 和歌山県新宮市

熊野本宮旧社地 和歌山県田辺市
神社神武東征後・・・紀の国造になり大連の姓も賜る
初代スヘラキの神武の詔で「スベシカド」に任命された高倉下は四国右矢印ツクシ(筑紫)の32県右矢印ヤマカケ(山陰)右矢印コシウシロ(越後)をめぐって治めました。
こしうしろのヤヒコヤマに出没した土蜘蛛と5度矛を使って鎮圧し、コシウシロの24県を神武に献上したのです。神武8年のことです。
この功績により紀の国造の大連を賜ります。
高倉下・天香山命・天香語山命が祭神
椋下 (クラゲ) 神社 奈良県宇陀市・・・ニシキトへについての由緒。東の福地岳は別名をタカクラヤマというらしい。
たかくらやまの ふもとには
ゑしきがいくさ いはわれの
かなめによりて みちふさぐ

高角神社 奈良県宇陀市
岐多志太神社 奈良県磯城郡・・・鍛冶師の神さま、雅楽ノカミとして。
竹田神社 奈良県橿原市・・・育児にからむ呪術儀礼の神社。薬草。
葛木坐火雷神社 奈良県葛城市 ・・・天香山命は笛吹連の祖神。本殿の背後に古墳があり、崇神天皇御賜、笛吹連の祖・櫂子(カジコ)の父である建多析命(タケダオリ)の墓
笛吹若宮神社 奈良県葛城市
日前(ヒノクマ)神社末社 和歌山県和歌山市

神社二度目のコシウシロ・・・弥彦守のヲシテ賜る
前回コシウシロを制圧してから12年が過ぎるとまたしてもコシウシロが騒がしくなるので、再び向かうタカクラシタでしたが矛を使わずして治まったのでコシウシロの国守を賜り長く住むことことになりました。ゆえに紀の国造を妹婿のアメノミチネに交代しました。
彌彦神社  新潟県西蒲原郡 をはじめ新潟県に多数・・・地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えた
伊夜日子神社 新潟県西蒲原郡 をはじめ新潟県に多数
魚沼神社 新潟県小千谷市・・・上杉謙信が出陣の際に参拝した。
伊米神社(イメ) 新潟県小千谷市
守門神社(スモン) 新潟県北魚沼郡
大崎神社 新潟県新井市
新潟県を中心に北海道から鹿児島まで全国に。
全国をめぐって治め各地で慕われた様子が伺えます。
タカクラシタ77歳のときに20歳のイスキヨリヒメを神武より賜り子を成しています。
逆算すると57歳の時に橿原宮が成立したという事です。神武が大和討ちのため宮崎を出発したのが45歳の時。中国地方で3年ほど費やしていますので紀伊半島に入ったのは48歳か49歳ごろだと思われます。神武天皇より8歳ぐらい年上という計算になります。
年齢から見てコシウシロのクニに骨をうずめたと思われるタカクラシタですが、いつから天香山命・天香語山命を名乗る様になったのでしょう。
神社天香山命・天香語山命
タカクラシタは先見力と国の経営に関する洞察力を備え、分限と節度をわきまえた行動をとる人のように見受けられます。地域の民とのつながりが深く徳のあった人物のようで、多くの伝説が残されています。また、毘沙門天との習合も見られるようです。軍神であり、雅楽を楽しみ、鉄を鍛え、塩をつくる、塗部になるなど産業を興し子孫が氏族の祖となる分野は多岐にわたっています。
天香山命はタカクラシタの実父の名であり、一度は養子縁組を結んだ義父のカクヤマ宮にも因んでいます。そして、天香山命を祀る神社の由緒に残るほとんどは「天火明命の御子」であると伝えています。
はてなマークけれどホツマツタエではカクヤマ宮の養子に入ることを固辞しているのです。
それなのになぜ「天火明命の御子」という由緒が伝わっているのでしょう。
神武東征は当時の人々にどのようなインパクトがあったモノかを知りたくなりました。
いわゆる”反乱軍”とされるニギハヤヒ=アスカの宮=カクヤマの宮ですが、テルヒコホノアカリがアスカの宮として立った時に付いていた32司のメンバーを見れば、それこそアマテル時代より以前からの重鎮の子孫たちの顔ぶれが並んでいます。主君にマメ(忠)であればこそ、神武軍との戦いは身内同士の戦いでもあり心痛むものだったでしょう。
神武に抵抗したクニ司たちも、基は同じご先祖を持つモノ同士だったかもしれないのです。
反乱軍が反乱軍である原因をつくったナガスネヒコにしても古くはトヨケ神をご先祖に持つのです。そのナガスネヒコにしても、主君の子無きを思い煩っての暴挙に出たことです。わが君こそ正統であるという強い思いあればこそ。ナガスネヒコはマメを尽くしたその主君に斬られたのでした。しかしながら、イミナと思われるトミヒコとしても祀る神社は少ないところをみるとやはり問題のある人物だったのだろうと思わせられます。
そしてタカクラシタ。彼こそ、本来はニギハヤヒのカクヤマの宮を継ぐ人だったのです。
それなのにあろうことか、敵である神武軍に付いたのです。ナガスネヒコから見れば裏切り者と見えたに違いないのです。
やがてタカクラシタは紀の国造を12年ほど勤めることになります。反乱軍を祀り土蜘蛛塚を立て弔ったのではないでしょうか。国造としての12年は争乱後8年を経た後ですが、ツワモノどもが夢のあとを刈り取る年月となったかもしれません。けれども大和の地に立ち上るカクヤマの宮の気配を消し去ることはできないでしょう。なぜなら、”天の香具山”はいつもそこに静かに佇んでいるのですから。香具山の築山は今に残るテルヒコホノアカリの唯一の事業だったのでした。
「天香山の土をもって神を祭ることは大和の地の支配権を得ることであると考えられていた。」
という謂れは神武東征の時にあります。
よしのをのゑの ゐひかりも
いわわけかみも いてむかう
たかくらやまの ふもとには
ゑしきかいくさ いはわれの
かなめによりて みちふさく
中略
しきたける かたきあかし
みなこはむ

高倉の峰から見渡せば多くのクニ司、アカシが敵として待ち構えるのがみえます。
神武軍も絶体絶命の状態にあります。
わがきみくにを さだむなら
みちもひらけん かならずと
決死の覚悟をし、タカクラヤマから香具山の土を採りに行き、それで作った神器で吉凶を占い、アマテル・トヨケ・ニニキネの御祖神を勧請し祀ったのです。
そして矛を治める歌を詠みます
かんかせの いせのうみなる
いにしえの はえはいもとむ
したたみの あこよよあこよ
したたみの いわいもとめり
うちてしやまん

この歌によってニギハヤヒは戦意を喪失し、反乱首謀の重臣ナガスネを切り殺し和平を成立させました。ニギハヤヒを褒めて、その子ウマシマチには代々物部を名乗ることになりました。
それはタカクラシタが捧げ、この戦いに勝機をもたらした「フツノミタマ」を”元カクヤマ宮”に与えることでもありました。
カクヤマ宮を継いでいたのはニニキネの息子ムメヒトホノアカリの息子のニギハヤヒだったのです。ニギハヤヒは祖父の兄であるテルヒコホノアカリの死後養子になりました。
この方は少しばかり優柔不断なところが見られます。子が無いのでタカクラシタを再び養子にと持ちかけますが断られ、焦るナガスネの「ヨツギフミ」を盗み写すという罪を断罪できずに放置します。その結果ナガスネは勝手な振る舞いを加速させついには神武と戦うはめに陥り後世まで反乱軍の親玉としての汚名を被ることになるのです。
結果としては白旗を上げてキミからトミの身分に降格されます。ナガスネヒコはともかくとしてわが君のために真心のマメを尽くして死んでいった家臣も少なくは無かったでしょう。たとえ勝ち組にあろうとも、共に育った身内を無くしたものもいたのだと思うのです。その魂はかの香具山に知らず集まるに違いありません。中には怨み辛みを語る者もあったでしょう。わが宮こそ我が誠と復興を願うものもいたでしょう。
けれども元々我われは同じアマテルカミの国民。心をいつにしてクニの発展のため、民の幸せのために尽くすことが本来の仕事ではなかろうか?
どのようにしたら、カクヤマ宮の末裔と皇統の子孫が一致団結できるのか。
天神地祇そろい踏みの祀りが可能になるための方法はなきや?
一つだけある。皇統を刺激せずカクヤマ宮の名を残す方法が。
神武のマメな家臣であるタカクラシタだからこそ、そして、カクヤマ宮に一度は養子となったタカクラシタだからこそ許される方法。
タカクラシタは自分で天香山命を名乗る人ではないでしょうし、それではうまく行かない。子孫や家臣に対し遺し言葉などを語ったのではないでしょうか。
かくして「天火明命の御子天香山命」は100年近い時を経て実現したのです。
それは天火明命の執念が為した業と言えるのかもしれません。

というストーリーが一つです。
ニギハヤヒがナガスネヒコを斬った段階でアスカ宮は消滅し二朝並立時代は終わりました。
その昔、アマテルカミはどのようなお気持ちで二朝並立時代を始めたのでしょう。このような形での終焉はアマテルカミの理想とはたして合っていたでしょうか?
神武はそのことを常に考えていたでしょう。アマテルカミのお考えはどこに?と。
そもそも良政を布かれたアマテルカミの民へのヲシヱはカンカセの「ヰセノミチ(陰陽和合の道、夫婦の道)」でした。ワカヒメ・セオリツがヰゴコロを、トヨケ・アマテルがセをモル「ヰセの道」。
アマテルカミがスヘ(総)カミの時代、日嗣を御子オシヒトにゆずります。ヒタカミに遷都し広く世にしろしめし、近畿地方以西は琵琶湖東岸のオモイカネが、四国はツキヨミが、白山神こと6代タカミムスビはネノクニ、九州はスミヨロシが分けて治めました。
オシホミミの日嗣についてもスヘカミの詔で決まりました。兄のテルヒコホノアカリはトクサタカラを賜って老齢により引退したココトムスビ(カスガカミ)の後を継いでアスカに宮を設けました。弟のニニキネは新田開発を全国で行い目覚ましい豊かさを民にもたらしましたので、その業はクニトコタチの神威が現れたものだとしてミクサタカラを、左右臣のアマノコヤネとクシヒコとともに賜りました。
そもそも、クニトコタチの時代からヱト(兄弟)の神が交互に政治を任される取り決めがあったそうです。陰陽のバランスを整える和合の哲学がこのクニのはじめからあったのだと思われます。
天地、男女、陰陽、左右二つの良きものが刺激し合って和合し角を取り良き治めを行えるようにと。
だからこその、タカクラヤマでのあの歌に繋がります。
かんかせの いせのうみなる
いにしえの はえはいもとむ
したたみの あこよよあこよ
したたみの いわいもとめり
うちてしやまん

ニギハヤヒの決断は正しく、神武はフツノミタマをウマシマチに授け軍事をニギハヤヒの子孫に委ねる選択をしたのです。ただし、もっと洗練した分業制が必要でした。
アスカの臣と民の精神支柱になるカクヤマの宮の代替えは、神武こそ必要としていた物だったのだと思うのです。アマテルカミの子孫の名に掛けて。そうでなければ、仇となるその名を神武の天下で語ることなど許されなかったことでしょう。つまり、神武その人が天香山命の称え名をタカクラシタに贈ったのです。三種の神器の下賜はなく、フツノミタマもない、贈り名とイスキヨリ姫だけをタカクラシタに与えたのです。

※このようなバランスの政治は粛清の歴史をもつ文化圏の人にはわかりにくいものだったと思われます。
これが二つ目のストーリー。さて真実はどこに?
神社タカクラシタの子孫
なかば自分の意志とは無関係にタカクラシタは、クニのため、キミトミタミのために天香山命を名乗り、カクヤマの宮の祖ホノアカリを祀る使命を負ったというストーリーが私的にはしっくりきます。
そのような方の子孫はどのような活動をしているのでしょう。