神社氷上姉子神社。72番目

尾張大連であるオトヨの娘・ミヤズヒメをお祀りしています。
ヤマトタケが関東を平らげて再びここ(火高)に戻ってミヤズヒメと逢ってから伊吹山に向かいます。
そしてイフキヌシの射るツララにあたり熱を出し、その傷がもとで病に倒れます。
なんとか伊勢に戻ろうとして途中で力尽き身罷るのです。
ミヤズヒメのもとに置き忘れた形見のクサナギノツルギを祀ったのが熱田神宮です。
姉子というのは、夫のいない乙女のことだそうです。もともとは火高にあるので火上姉子神社といったようです。

愛する夫ヤマトタケが自分のところに戻りハラミヤマの宮に似せた宮でともに暮らすことを待ちわびていた姫の悲しみはいかばかりであったでしょう。夫は亡骸で帰ってきたのでした。

父のオトヨは、タカクラシタの子孫になります。
タカクラシタは越後を拠点として居ついたと思われますが、一体どのようにして尾張へとつながって行ったのでしょう。そこで祀る神社を調べてみました。タカクラシタを祀る神社は広く北海道から九州まで主に日本海側に点在しています。タカクラシタは神武東征後「スヘオシカ」を賜って地方を平らげる役割を務めていますので、全国に祀られていることは不思議ではありません。ただ、尾張との関係はよくわかりません。
本日、夕方ではありますがお天気は悪くないです。けれどなんとなく暗い感じですよね。画像が。記事を書いている間にも首のあたりが重くなってきた叫びやばい。

オトヨのご先祖様であるタカクラシタを追う事で視界が明るくなってくるかもしれない。。。

高倉下の拠点になる弥彦神社、伊富岐神社の祭神を並べてみました。
              天火明命
①天香語山命(タカクラシタ)  ①一御子天香語山命 
②第1嗣天五田根命(アメノムラクモ) ②二御子天村雲命  
③第2嗣天忍人命(アメノオシヒト)③三御子天忍人命  
④第3嗣天戸目命(アメノトメ)   ④四御子天戸目命 
⑤第4嗣建筒草命(タケツツクサ)⑤五御子建斗米命    
⑥第5嗣建田背命(タケタセ)   ⑥六御子建田背命       
⑦第6嗣建諸隅命(タケモロズミ) ⑦七御子建諸隅命  
                     ⑧八御子倭得玉彦命 
                     ⑨九御子若都保命
 
いろいろ系図を見ていると第3嗣天戸目命には子が無いようです。後を継いだのは従兄の子である第4嗣建筒草命もまた子もなく妻の存在も見当たりません。ひょとしたら天戸目命が養子として貰い受けた後年若く夭折したのかもしれません。ホツマツタエによるとニギハヤヒの弟であるタケヒテルの子建斗米命が養子に入り継いだということのようです。孝霊天皇がハラミヤマ山ろくスワサカオリ宮に御幸の際接待したのが父ハラミヤマを治めたムメヒトホノアカリの子タケテルでした。この時にタケテルの子建斗米命を臣にと孝霊天皇が望まれました。タケトメとタケヅヅクサの関係はよくわかりませんがタケツツクサの祀りを継いでタケダの祖となったとあります。タケトメとタケツツクサ。どこの祀りを継いでどの地のタケダの祖となったのでしょう。
ホツマツタエ32アヤ
ときたけひてる たまかわの
かんたからふみ たてまつる
これあみめまこ はらをきみ
そのこかみよの みのりゑて
いまになからえ きみゑみて
このたけとめを とみにこふ
たけつつくさの まつりつく

この文面を見ると、タケツツクサの後、越後の守をどうするかと思いめぐらせていた孝霊天皇が、この神代からの実りを惜しみなくキミに捧げるタケテルに感心し、その子タケトメを後任にと求めたのだという事がわかります。
もともとハラオキミを継承していたタケテルの子が、越後の守を賜ったということのように見えます。
                                   
旧事本紀と勘注系図を並べますと
     天火明命          ニニキネ
①天香語山命  ①天香語山命  ①ホホデミ②ウガヤ
    越後の弥彦守      敦賀宮   宮崎宮        
②天村雲命   ②天村雲命     ③初代神武 48歳即位-76
越後(奥さんが徳島のようです) 橿原宮
③天忍人命   ③天忍人命     ④2代綏靖 神武29‐113 80 
越後(奥さんは腹ちがい。但馬の人) 葛城高岡宮
                    ⑤3代 安寧 神武85-142 104
                    片塩浮穴宮
                    ⑥4代 懿徳 神武109-186 152
                   軽之境岡宮
④瀛津世襲命  ④天登目命     ⑦5代孝昭 神武157-270 187 
孝昭天皇の政の臣  奥さんは葛木の人  葛城御所市池之内宮
尾張連の祖                  ⑧6代 孝安 神武236-373 271
妹は15歳で60歳の孝昭に嫁ぐ時に31歳
  御所市室秋津島宮
⑤建筒草命   ⑤建登米命         ⑨7代孝霊 神武322-450 374   
子を為す前に死? ニギハヤヒの弟。養子     磯城郡田原本町黒田宮
            紀伊国造の妹が妻
           孝霊天皇の臣

⑥建田背命   ⑥建田小利命    
丹波・但馬国造の祖 笛吹き連の祖        
海部氏の祖     

⑦建諸隅命   ⑦建諸隅命     ⑩8代 孝元 神武392-508 451 
丹後に府を置く。          軽之堺原宮
妹が 崇神天皇に嫁ぐ。妻は葛木直

⑧倭得玉彦命  ⑧日本得玉彦命   ⑪9代 開化 神武458-573 513 
伊賀臣の祖の娘、阿波国の女と結婚    春日之伊邪河宮
三重県上野市に移住

⑨弟彦命    ⑨意富那比命      ⑫10代 崇神 神武523-643 575
倭得玉彦命の子  弟彦命の弟            磯城瑞籬宮
⑩淡夜分命   ⑩乎縫命       ⑬11代 垂仁 神武604-744 645
弟彦命の子     意富那比命の子    纒向珠城宮 
⑪乎止与命(オトヨ)⑪小登興命     ⑭12代 景行 神武662-805 745
淡夜分命の子    乎縫命の子      桜井市巻向日代宮
      尾張国造

                       ⑮ ヤマトタケ 神武747-788
                  
※旧事本紀ではオトヨが誰の子か不詳だが鳥越氏説では淡夜分命の子としているようです。
旧事本紀は尾張氏系統で、勘注系図は海部氏のものです。
イエのの制度は結構古くからあり、皇統を継ぐことだけでなく、守や司の継承も大きな課題だったのですね。全く血縁のないところから後継になることはいろいろな波紋を起こしたでしょうし系図にも混乱が見えます。継子が無くタカクラシタのように養子になったケースも多かったでしょう。ただ、系図ではそのあたりはみえません。
もともとアマテルカミが始めた二朝並立を別の形での存続を果たし「天香語山命」の名は今に残ったのです。継子が無い場合、建筒草命で絶えるのは越後守だけでなく「天香語山命」つまりアスカの宮の祀り主が絶えることでもありました。
ところで、ホツマツタエでは孝霊天皇の功績を二つ挙げています。
一つは人命尊重の詔を出したこと。千の動物より人ひとりが大事だという事で間引きなどを罪としたという事です。もう一つはそれまではハラミヤマやカクヤマと呼ばれていた美しい山に、吉兆を得て新しく「ふしのやま(富士山)」と、名付け親となったことです。ヒューマニズムあふれるキミだったことが伺えます。
4代目天戸目命5代目建筒草命には子もなく、孝霊天皇にもその嘆きが耳に入っていたかもしれません。弟天忍男命の娘が孝昭天皇に嫁ぎ息子オキツヨソが臣になって興隆を極めていますので本家がしょぼくれる姿をさらすわけにはいかないことでしたでしょう。
タケトメの祖父ムメヒトホノアカリは長男でしたがアマカミを継げませんでした。祖母は地祇系のコモリ(オオナムチの孫)の次女です。”カシマタチ”に対する見えないもやもやをひょっとしたら引き継いでいるかもしれません。そういったことを背景にしながらも曾祖父は偉大なニニキネというタケトメです。タケトメが「天香語山命」の後裔として養子に入ることは、奇しくも2朝並立時代に遡り皇統を一つにする采配になっています。狙ったことかどうかは別として、四方丸く収まる人選だと考えたかもしれません。
タケトメにとって叔父となるオキツヨソは孝昭天皇に侍って葛城いたはずです。母は葛城国造の娘ですしその地域で幅を利かせていたことでしょう。タケトメが養子に入りその子たちをあちらこちらに配置するために、かなり年下であろう叔父に対して働きかけたことでしょう。その甲斐あってタケタセは丹波、タケダオリは葛木坐火雷神社周辺、孫のタケモロズミは丹後から山城に落ち着きました。しかし、オキツヨソはタカクラシタ(天香語山命)とは血縁がありますが、タケトメの曾祖父はニニキネなのです。アスカノ宮(テルヒコホノアカリ)から見ればライバルです。その意味で確執が無いとは限りません。確執とまではいかなくとも張り合う気持ちはあったでしょう。結果としてオキツヨソの家系は葛城や住吉など西をテリトリーとし、タケトメの子は丹波や尾張に根を張りました。
系図によると天戸目命が養子のタケトメの子は8人です。彼らの主な活動ルートです。
建田背命の家系は丹波国造を生み、丹波氏、籠神社社家・海部氏、度会氏へつながります。若狭湾を囲む丹波に居たと考えられます。日本海側の海人族。
建宇那比命の家系は建諸隅命を経て伊富岐の五百木部氏へつながります。おそらくは敦賀から琵琶湖の東側から岐阜にかけての地域へ。日本海側から内陸に入って行ったと思われます。
健多乎利命の家系は尾張国造へつながると考えられます。健多乎利命は犬山の針綱 (ハリツナ) 神社に祭られています。葛木-宇陀-名張-津-木曽川を遡って犬山へという丹生ルートを取っていた海人族かもしれません。大和の葛木坐火雷神社にタケダオリの墓があるといいます。
※父のタケトメは富士山麓のスワサカオリ宮にいたと見られます。山の人のはずが何故子どもたちは海人族なんでしょう。スワサカオリは駿河と呼ばれたようなのですが、当時は海が今よりも内陸に近く地形が異なり当時は富士山のすぐ近くに海があったようです。タケトメは船を操ることが得意だったと考えられます。
で。
オトヨは一体誰の子なのでしょう。
不思議ですがわからないのです。尾張氏系図にもオトヨの前にはつながっていません。
ホツマツタエ最終章は「あつたのかみ よおいなむあや」といい
ヤマトタケの死で終わります。
まきむきの ひしろのこよみ
よそひはる やまとたけきみ
きそちより いたるおわりの
たけとめか まこのむらしの
いえ
にいる つまみやすひめ
みやこより おくりてちち
いゑにまつ

という記述があります。
タケトメの孫の連はミヤズヒメの父という解釈です。
だとするとタケトメ―タケダオリ―オトヨ―ミヤズヒメ
で良さそうです。
けれど、タケトメが養子に入ってからヤマトタケルの時代まで、天皇6世代400年前後が経過しているのです。
当時の寿命は長く、全くあり得ないことでもないのでしょうが。
いずれにしてもオトヨという人物の父は、タケダオリか、乎縫命か、淡夜分命か。ミステリーのままです。尾張に根をおろし尾張国造になったのはオトヨであることに間違いは無いのですから、尾張氏の祖は「オトヨ」とすればすっきりするのに。という想いがぬぐえません。
誰の子であろうとワシが尾張の祖じゃビックリマーク
我がけなげなる娘は、ヤマトタケの想いを汲みとって生涯を形見の剣を祀りあげたのじゃ。
そのことが尾張の地を守り育てたのじゃ。
むべなるかな。
遠い昔、アスカ宮(カクヤマ宮)の祭祀を託されたタカクラシタは、その任を全うしました。
祭祀は海部、尾張、津守など今も続き伊富岐神社、籠神社、真清田神社だけでなく多くの子孫たちに祀られ続けているのです。「ワシが尾張の祖じゃ」と自分が前に出なかったからこそ同じカミを祀る輪が広がったのでしょうね。
神社というわけで疑問が湧くに任せて話が思いのほか反れすぎました。
私にとって神社巡りは古代史を勉強する縁です。
後日譚―
ミヤズヒメはヤマトタケの子を2人もうけています。タケダ王は尾張丹羽建部の御祖になり、サエキ王は三河国の御使連の祖になったとのことです。
神社氷上姉子神社(名古屋市緑区)
祭神 宮簀媛命
にごころの
やえがきめくり
あわひらく
ゐくらむわたち
なるゐせのみち T