神社星宮社。151番目。

星宮社を調べてみると
Wikiより
創建は舒明天皇9年(637年)。「この地に星が降り、それを祀るために建てられた」といわれる(この話は「知我麻社のことだ」と言う説もある)。また、創建時の星宮社は今の笠寺小学校のあたりに建てられたが、織田信長が星崎城を築城する際、現在の地へ移されたとの説がある。
この地は古代、松炬島(松ゴ島(「ゴ」=「女后」))と呼ばれた場所で、乎止與命の館があったという。乎止與命は上知我麻社の祭神。
はじめ上知我麻神社と下知我麻神社の本社はこの地に鎮座したが、後に熱田神宮へ遷座された。
8世紀、13世紀にもこの地方に「隕石が落ちた」という言い伝えがある。
1632年(1670年とも)、星宮社の南の南野村に隕石が落ちた。1829年(文政12年)に喚続神社へ寄進され、社宝となる。1976年に国立科学博物館の村山定夫によって隕石と確認され、南野隕石と命名された。隕石を収められている木箱には表に「霊石」と書かれている。


「星」というアイテムには、人はロマンを感じるのですよね。
先日参拝した那古野神社の境内に青麻社があり、それが東北の神社で日・月・星を祀るということで「へえぇ」と思い、星を祀る神社を探して本社をつい最近発見していました。

車で仕事の帰り道、標識に「星崎」の文字を見つけての突発的な参拝です。
「星宮を参りしよう」と。
ナビ頼りに車を進めると、いつか来たような見覚えのある道に出ました。
「あ、ここを入ると氷上姉子神社じゃん!」
まだお参りしていなかった元宮の方に行くチャンス!
とも思ったのですが、とにかく星宮を目指す。。。
けど、今思えば氷上姉子神社の印象はなにかの暗示でもあったようです。

星崎宮。この祭神がまたロマンを呼び起こすんですよ。
神無備より
祭神は天津甕星(あまつみかぼし)で、最後まで天孫族に従わなかった天香香背男神のこと。
 舒明天皇641年に、この地に星が降ってきたことを創建とする説がある。しかしこれは摂社の上知我麻社の事とする考えもある。 星宮社については江戸時代初期を遡る文献はないとのこと。
 鎮座地はかって熱田神宮からつながる笠寺台地の先端に当たる。東に鳴海潟、西に年魚市「あゆち」潟を分けた岬の先端と言うこと。年魚市「あゆち」が愛知に変わったそうである。
 鎮座地の南東に阿原と言う地名がある。往古は海、その後は塩田、あらに田畑の地になったのであろうが、出水に悩まされた地域のはず。そこに天津甕星神を祀る星宮が鎮座、やはり虐げられた人々の「干し、乾し」への願いが込められた神社だったのかも知れない。
 『式内社調査報告』によれば、現在、熱田の森にも鎮座している上知我麻神社、下知我麻神社の内、上知我麻神社の論社の一とされているとの事。製塩に使われた竈が多く並び、それを千竈(ちかま)と称した神社名と云う。
 知我麻神社の祭神の乎止与命は、景行天皇のとき,大和国高尾張邑からやって来て,尾張の国を造ったとされる。葛城に住む氏族であり、鴨の神だったのか。

「星の神天香香背男(あまくがせお)、またの名を天津甕星(あまつみかぼし)。甕星とは明けの 星、宵の明星すなわち赤い金星にほかなりません。」などの記述がネット上にあります。
天津甕星(あまつみかぼし)もしくは天香香背男神という神はホツマツタヱに登場するのでしょうか?するとしたらどんな登場をしているのでしょう。日本書紀では悪神とされている星の神ですが。
ホツマツタヱ20あやは、アマテルカミの孫ホノアカリがトクサタカラを賜り、アスカ宮の守になるくだりが書かれています。
ホノアカリの周囲を騎乗で護衛する32人の中に、「アマセオ」という人物が登場します。
アマセオはカンミムスビ(6代タカミムスビ、ヤソキネ)のヤサコ(玄孫)とあります。タカミムスビを継いで居たら10代という世代です。
アマセオについては、それ以上のことは何の記述もありません。
ホノアカリの大軍団は江戸時代の大名行列のようなものでしょうか。
ヒタカミからアスカまで騎馬とはいえ大変な道のりです。最初に逗留した鹿島宮でも歓迎の祝宴などでもてなしたのですが、農繁期に入り民を疲れさせてはならないと、イワフネでの移動に切り替えたのです。そのイワフネを操る5守は船長アマツハハラ、舵取りアマツマラ、船員司アカウラ、副水主アカマロ・アカホシ、風見役マウラとあります。
赤い金星→アカホシ→ホノアカリのイワフネのクルー
という図もありえます。アカホシとはカツラギヒトコトヌシの子で、カツテカミの弟です。つまり、アカホシは大和地方の人であって地元にホノアカリを迎える立場であったはずです。このたびはヒタカミまでホノアカリをお迎えに上がった形です。
しかし、そもそも天香香背男とは日本書紀で「いわゆる国譲り」事件の最後の抵抗者とされるカミとされるのですから、ホノアカリのアスカ宮移りよりは時代が前です。国譲りの時代には、アマセオは生まれていても幼児だったはずですから「悪神」となるには無理があります。

ただ、日本書紀の記述が誤りで、別のときの抵抗だとしたらこれではないかと思える記述がホツマツタヱにありました。
時代はヤマトタケ東征の時代です。
ニニキネや重臣が全国を巡って新田開発をして日本という統一国家の土台が出来上がりました。
ニニキネのひ孫、神武天皇により二朝並立朝廷が一つになってから、朝廷の宮は常に大和の地にありました。12代景行天皇の御代になるまで何百年の時を経て、どうやら日本全国津々浦々まで朝廷の威光が行き届かなくなってきたようです。租税を支払うこともせず都で起きたことについても正確な情報が途絶えていました。
われわれは独立国家だと主張する向きが出始めたのです。それは九州においても東北においても起きてきたのでした。
ヤマトタケは東征にあたり必ずしも武力に頼ったわけではありませんでした。
まずはオシカ(使者)をおくり説得に当たらせたのです。
最後の抵抗者と思われるのは次です。
ホツマツタヱ39あや
なこそはま かりみやにます
ひたかみの みちのくしまつ
みちひこ
と くにつこゐたり
あかたぬし ももなそよたり
よろやから たけのみなとに
こはむとき たけひをやりて
これをめす

ミチノクが自らのたまうには
それわかくには
おおみやお たかみむすひ
このくにお ひらきてななよ
これをつく ひのかみここに
みちまなふ かれひたかみそ
あめのみこ ちちひめとうむ
みこふたり ゑはあすかみや
とははらみ そのときくにお
たまわりて そよのはつこの
われまては よそのたうけす

タカミムスビが開き、アマテルカミも40までこの地で帝王学を学んだわが国である。その御子はタカミムスビ家の娘と結婚して兄ホノアカリ、弟ニニキネを生んだ。そのときに国を賜って14代の私まではよその国に治められたことは無い。
と、まことに正論らしき言い分を述べたてています。しかし、その上を行く理論でオオトモタケヒは説得し、ミチノクは「尤もだ。まいりました!」となったのでした。みなと共にひれ伏してヤマトタケに降伏しました。
ミチノクという人は、中央とは交流が途絶えていましたが数えて14代タカミムスビなのですね。
この方が、最後の抵抗者として登場しているのです。
そして、先述した20あやに登場する、数えて10代タカミムスビにあたるのが「アマセオ」なのです。
20あやに騎乗の護衛役として登場する以外に「アマセオ」の記述はありませんので、アマセオがその後何かをしでかしたのかはわかりません。名が残っていないアマセオの子孫が、神武東征の際に「悪神」のように抵抗した可能性はありますけれども。
ホツマツタヱを軸にしてみるならば日本書紀の記述は、色々な時代が、ヒタカミのタカミムスビ家の中で交錯しているような印象です。
記紀でタカミムスビは造化の三神の一柱です。タカミムスビ家を汚すような記述を残すわけには行かなかったのかもしれません。天香香背男神を「悪神」とまで言っているのですから。
それにしても、なぜ天香香背男神が星のカミなんでしょう。
なんか、天津甕星(あまつみかぼし)と天香香背男神は別のカミのような気もします。
星神のほうはイワフネを操るアカホシなのかも?
知我麻神社の祭神の乎止与命は、景行天皇のとき,大和国高尾張邑からやって来て,尾張の国を造ったとされる。
高尾張邑は葛城市で、アカホシの生まれた御所市とは数キロしか離れていません。
後の尾張氏と何らかのつながりがあり、オトヨがアカホシを信望したということも考えられなくもありません。
というのもここ、星崎宮の上にあるんです。

上下知我麻神社が。ここは、熱田神宮にある上下知我麻神社の元宮とも言われています。
参考→熱田神宮
上り口に磐座が。

ここに隕石が落ちたんでしょうか。
不思議な造形ではありますね。

そして天辺に行く間のことです。
なぜかこんな写真がケータイに残されていました。

かばんを持っておらず、ケータイは手に持っていたか、ズボンのポケットに入れたかどちらかです。記憶がないんです。景色にピンク色のものはありませんでしたし。ピンクだけの光も目撃なしです。
ん~~~。良い知らせでしょうか。
と思っていたら写真を撮った翌日一本の電話アリ。
どうやらこれは予測どおり吉兆のようです。
吉兆というのは、普通知らぬ間にやってきて通り過ぎていくことが多いです。
吉兆が来ていて掴んでも苦しかったりすることがあります。
だから吉兆とは思えなかったり。
吉兆の起こし方、掴み方、使い方がわかっていれば見逃したりすることも少ないのでしょうね。
反省を踏まえて吉兆には目を光らせたい目と思います。

上知我麻神社の祭神は乎止与命です。
先ほど通りかかった氷上姉子神社の建てぬしであり、祀られています。
尾張連の祖で、ヤマトタケのキサキの一人であるミヤズヒメのお父さんです。

そして下知我麻神社。

祭神は真敷刀俾命(ましきとべのみこと)。オトヨの奥様です。
こうやって星宮と一緒に祀られていることは何を意味してるんでしょうね。
ここに祀られている天津甕星(あまつみかぼし)神がヒタカミ出身のアマセオであったなら、いったいオトヨとどんな関係にあるというのか見当も付きません。それに、オトヨにとって御子ヤマトタケは娘婿に当たるわけであって反逆児ではありえませんし。
葛木一言主はオオナムチの弟で、早くから大和に居ついていました。その次男坊のアカホシがホノアカリのイワフネクルーとして登用されたのです。だから、神武天皇に逆らったニギハヤヒ・ナガスネヒコ側の一員として戦いに加わった可能性はあるでしょう。
一方で神武軍として戦ったタカクラシタ(天香山命)が一時期紀の国造に就任して後越後に行きました。尾張氏につながる後裔は葛木坐火雷神社に居たと思われます。しかし、オトヨの代で愛知県の尾張地方に拠点を移します。しかし、そのことに大和朝廷との怨恨は無いように見えます。
隕石がよく落ちる場所というのはあるのでしょうね。ここもそういう場所らしいのです。Wikiにあるように単純に空から降ってきた石=イワフネつながりでオトヨがアカホシを祀ったというのが本当のところなのでしょう。ひょっとしたら人が乗れる宇宙からの飛来物が着陸したのかも?
もっとあるいて向こうに下りると、白山社。

琴比羅社

天王社・神明社

本殿の左には英霊社?

本殿の右には、加具土社。

軻遇突智社。

加具土神、軻遇突智神がなぜ分かれているのか、よくわかりません。
男性性と女性性として表現してるのかも知れませんね。
インド神話に「アグニ」という火の神がいます。生い立ちがよく似ているので、ひょっとしたら軻遇突智神の本体はインド神「アグニ」なのかもしれません。
いずれにせよ重ね重ね、火事を防ぎたかったようです。
隕石が火の玉みたいに降ってきて小屋などを焼いたのかもしれません。
星の神は北向きのイメージがありました。ここは南向きです。
神社星宮社(名古屋市南区)
祭神 天津甕星(あまつみかぼし)神