神社成岩神社。179番目。


祭神 誉田別尊、天津児屋根命、豊受姫尊
八幡さん(誉田別尊(ほんだわけのみこと)、品陀和気命、大鞆和気命(おおともわけのみこと)など)については、ホツマツタヱに記述が無くこれまで言及したことが無いので、ちょっと調べてみます。なんといっても稲荷神社と共に日本で最も多く祀られている神様ですから、日本に、大きな影響を与えていると思いますし。
東大寺の大仏建立や道鏡の神託事件の時など、数々のご神威をあらわし皇室を護られたことで朝廷から厚く信仰されてきました。また皇室だけでなく、清和源氏をはじめ全国の武士も武運の神「弓矢八幡」として崇敬を寄せ、一般の人々にも鎮守の神として親しまれてきました。6世紀、菱形池のほとりに初めてご顕現された八幡大神は「誉田天皇広幡八幡麿」また「護国霊験威力神通大自在王菩薩」 と名乗られたと伝えられています。仏教の世界でも八幡大菩薩として崇(あが)められ、元寇の時に神風を吹かせた神は八幡様であるとされています。
八幡大神の御神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名です。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社16社に列されています。また、一般の人々にも鎮守の神として広く親しまれてきました。
八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。
総本社宇佐八幡宮HPより
ホツマツタヱの記述は12代景行天皇時代までなので、応神天皇のご活躍については残されていません。系譜は、ヤマトタケの遺児14代仲哀天皇と、9代開花天皇の玄孫を父に持つ神功皇后との間の子です。
応神天皇のこと、八幡信仰のことなど神秘に満ちています。というほど諸説あり、でこちらの記述が最も常識的見解かと思われます。「わからない」結論なのですけど→神さまの履歴書

応神天皇の大きな事跡は、応神天皇14年に弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し援軍を求め応神天皇16年に120県の民を渡来させたというものです。(4世紀ごろ)
百済の民は建築・絹織物・薬の調合などの技術に優れ、後の大仏建立に尽力してから全国的に勢力を広げていったとされます。(8世紀)
10世紀ごろになると清和源氏の氏神として武家の信仰を集めるようになり関東・東北へ伝播して4万社以上の大神社として繁栄したということです。
神社本庁調べでは
八幡神社・・・約25,000社
稲荷神社・・・20,000~40,000社
神明神社・・・10,000~18,000社
天満宮・・・約10,000社
宗像三女神社・・・約7,000社
諏訪神社・・・約5,000社
八坂・津島・氷川神社・・・約5,300社
熊野神社・・・約3,000社
住吉神社・・・約2,000社
白山神社・・・約2,000社
秋葉・愛宕神社・・・約1400社
春日神社・・・約1,000社
金比羅神社・・・約600社
八幡さんは神社の数としてはTOPの1,2を争う位置に君臨しています。
でも、15代応神天皇が宇佐八幡宮創建の神さまでは新しすぎますよね。
もともと応神天皇、神功皇后が祀った比売大神なる神が居たということなんでしょうか?
ホツマツタヱ7あや
      ひにむかつひめ
のたまふは なんちらゑとか
みけひえて つくしにやれは
つくみおれ たなきねはとる
をはちちに めはははにつく
みひめこも ともにくたりて
ひたしませ かならすまてよ
ときあれと むへねんころに
さとされて つくしあかつち
これをうけ うさのみやゐ
あらためて もちこはやこは
あらつほね おけはいかりて
ひたりせす うちにつくれは
とよひめに ひたしまつらし

罪を犯したモチコハヤコが蟄居したのが宇佐の宮でした。
ハヤコの娘3人も一緒でしたが、ハヤコは処遇を怒り娘を打ち捨てて里の出雲に逃げます。
三女神を育てたのは、クマノクスヒの母となる宗像の娘アヤコでした。
宇佐の宮は三女神が育った場所だったのです。
ホツマツタヱ28あや
たなこひめ いふきとみやに
うむかみの ゑはいよつひこ
とさつひこ うさつひここれ
をんともに ゆきてつくしの
うさにすむ ははもうさにて
かみとなる いつくしまみや
いとうかみ よきをしるなそ

母ハヤコの過ちを恥じて自らさすらった愛すべきは宇佐で亡くなりました。亡骸を葬ったのが伊都岐島神社(宮島)です。タナコにアマテル神が神罹ることもありました。御神徳豊かな姫神だったのですね。
そして息子のうさつひこがこの宮にいました。
その地域はうさつひこのいとこに当たるニニキネが開墾しホホデミが整備し豊かになった国です。
後、タケヒト(カンヤマトイワレヒコ)が東征の際、宮崎を発して宇佐に寄った時、うさつひこが出迎えています。ひ孫世代のタケヒトは、娘のウサコヒメをアマノコヤネの孫アマノタネコに娶らせて筑紫のヲシカとします。
後に神武天皇が立ち、アマノタネコも上京していきます。そしてナオリナカトミノカミの称え名を賜ります。中臣氏の祖です。ナオリナカトミノカミを祀る直入中臣神社は大分県にあります。
アマノタネコとウサコヒメの子、ウサマロは父の死後2代天皇カヌナカワミミから三笠の名を与えられています。もうひとつのヲシテ文書ミカサフミは、後裔であるオオカシマによって書かれるのです。伊勢のカンヲミであり、10代崇神天皇、11代垂仁天皇の大臣オオカシマによって関東の国をも与えられるまでになっていきます。もともとご先祖のアマノコヤネは鹿島・香取他4つのノリを受け継いだ希代の人物でした。オオカシマを祀る阿波遅神社は兵庫県にあります。
ホツマツタヱに残る事跡はそこまでです。
宇佐氏は菟狭津彦命(うさつひこ)を祖とする宇佐八幡宮の神主家で、6世紀半ば29代欽明天皇の時代に八幡宮を勧請したとあります。→神紋と社家の姓氏
この記述からすると、八幡宮は別にあったということになります。
中臣氏の系図を紐解くとアマノコヤネの8世孫に国摩大鹿島命(おそらくホツマツタヱに登場するオオカシマ)なる名が見えます。その孫雷大臣命という人物は仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇、仁徳天皇に仕えた卜部姓の祖に当たり対馬に祀られています。雷大臣は神宮皇后が敢行した新羅遠征という重責を果たし、帰国途中で対馬に残っりました。雷大臣命とその子真根子は対馬・壱岐で朝鮮からの襲来に備えること、韓と自国の入貢をつかさどり、祭祀を行い、その礼を教えた人物だったといわれています。応神天皇が力を尽くした秦氏の渡来に大きな影響力をもっていたと考えられます。
真根子の曾孫押見命は5世紀、顕宗天皇代に山背に移り天月神命を祀ったとありますが、壱岐にある箱崎八幡神社にも祀られています。
秦氏を移住させるのに成功した応神天皇をヤハタ宮の創建に関わったのは、秦氏に寄進・要請された雷大臣命・真根子から押見命までの間の誰かではないのでしょうか。でなければ「ヤハタ」という神社名は付かないでしょう。卜部家が祭祀を行ったヤハタ神社を、古参の宇佐神宮が6世紀になって勧請した目的は再び歴史の主流と宇佐をつなげることだったのです。
宇佐神宮としてはそこで育ったアマテルカミの直系三女神を祀る由緒を持ち、ヤハタ神社は渡来人の尊崇を集め勢いがありました。二社が合祀され八幡総本宮宇佐神宮となって、古い由緒と新たな勢いを手に入れたんです。
時の権力者とつながる気質はその後も健在で八幡神社は日本で最も多い神社となっていったのですね。
提灯に明かりが付いています。

こちらは松尾社。

秦氏が701年に創建した神社で、本社松尾大社は京都市西京区にあります。祭神は大山咋神。
京都を開拓した神さまです。
参考→日吉神社
もう一つの境内社は御鍬社。拝殿の右側にあります。
神社成岩神社(愛知県半田市
祭神 誉田別尊、天津児屋根命、豊受姫尊