神社喪山神社。225番目。

古事記・日本書紀記載の地であり、高千穂への天孫降臨に先んじている古い由緒があります。

歌語り風土記より
 むかし天稚彦あめのわかひこ(天若日子)は、ある日、庭先の不審な雉子を矢で射ると、その矢が天から戻って来てその返し矢に当たって死んだ。妻の下照姫したてるひめの泣き叫ぶ声は天まで響いたといふ。葬儀のとき、下照姫の兄の味鋤高彦根あぢすきたかひこね神が喪屋を弔ふと、高彦根神は死んだ天稚彦と容貌がよく似てゐたので、天稚彦の親族は、天稚彦が生き返ったやうだといった。さういはれた味鋤高彦根神は、死人と間違へられたことを怒り、喪屋を足で蹴飛ばすと、喪屋は空を飛んで美濃国の藍見川の川上に至り、それが今の喪山(美濃市大矢田)であるといふ。喪山にまつられてゐた喪山天神社(祭神・天若日子命)は、北方の天王山の麓の楓谷の大矢田神社(牛頭天王社)の境内社として移転された。楓谷にはヤマモミヂ樹林がある。



ホツマツタヱにもしっかり記載があります。ちょっと話が異なります。
ホツマツタヱ10あや
あまくにの あめわかひこ
きわまりて たかみむすひか
かこゆみと ははやたまひて
むけしむる このかみもまた
まめならす たかてるひめ
めとりつつ あしはらくにお
のらんとて やとせふるまて
かえらねは ななしのききす
とひくたす あめわかひこか
かとのまえ かつらのすえに
しわさみて ほろろほろろと
なくおきき さくめかつけに
なもなくて あめおなくやと
わかひこか ははやをいれは
むねとほり とひてたかみの
まへにおち けんけんもなく
ちのははや たかみむすひは
これおみて とかむかえしや
わかひこか むねにあたりて
うせにしお かえしやおそる
もとおりや

ワカヒコが結婚したのはオオナムチの娘のタカテルヒメでした。
シタテルヒメはワカヒコの妹であり、はるばる美濃まで弔いにやってきたアチスキタカヒコネの、死者と間違えられた怒りを諌める役割を果たしたばかりか機転の効いた歌を読み、タカヒコネと結婚することになります。

      いかるあちすき
たかひこね
 ともなれはこそ
おちにとふ われおなきみに
あやまつは あらけからしや
はらたちと もやきりふせる
あおはかり さけてかんとお
さらんとす むかしなかやま
みちひらく かなやまひこの
まこむすめ したてるおくら
たかひこの いかりとかんと
みちかうた よみてさとせり
あめなるや おとたなはたの
うなかせる たまのみすまる
みすまるの あなたまはやみ
たにふたわ たらすあちすき
たかひこねそや

初代シタテルヒメであるワカヒメからその称え名を譲られたほどの歌の名人であるシタテルオクラヒメだったのです。この歌によって二人は結ばれることになりました。

ともあれ、ここがアメノワカヒコの喪屋があった場所という由緒には変わりありません。
拝殿の後ろの階段を上って正面には

神明社。
その右側が最も立派なお社です。

御祭神はおそらくアメワカヒコ。

神明社とのあいだの磐座。

多度神社。御祭神は天津彦根命。アマテルカミの御子息です。

神明社と多度神社の間の磐座。
アメワカヒコは奈良の髙鴨神社や葛木御歳神社など、ヤマト系賀茂一族の神社にも祀られていました。お国の本社である南宮大社には祀られていなさそうですが、意外なところでお見かけすることもあります。
天に上ったあとのことが伝説にもなったりして、神秘に包まれたカミではありますね。

神社喪山神社。(岐阜県美濃市)
祭神 天稚彦