神社知立神社(愛知県知立市)228番目。
三河国二宮、式内社で旧称は「池鯉鮒大明神」です。

とはいえ、東海道の沿道にある知立神社、江戸時代の池鯉鮒宿から来たであろう呼び習わしですし、大明神ですから神仏習合時代からのものです。
知立検定の記述によると
7世紀後半の木簡に「知利布」とある。律令制以後の8世紀の木簡に「知立」とある。平安時代の『和名抄』に「智立」郷がみえ、江戸時代には「池鯉鮒」という東海道の宿場町として栄えた。知立神社を建てた伊知理生命にちなむという説もある。
※ちなみに鎌倉以降は「智鯉鮒」だったそう。
知立神社の創建は112年と非常に古いのですが、名称から汲み取れる創建の意図については闇の中です。名前が出ている伊知理生命については、ノンフィクション作家である谷川彰英氏が知立神社の祭神であると書かれているようですが、何者なのかよくわかりません。

由緒によると、日本武尊が東国平定の行路に国運の発展を祈願し、その帰途奉祭のため創建したとあります。

祭神 彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、玉依比賣命、神日本磐余彦尊(神武天皇)で、相殿神が青海首命、聖徳太子
日本武尊はどなたに国運の発展を祈願したのか?その神が伊知理生命?命は地主神だった?
そこへ平定凱旋した日本武尊の命ずるところに従い、元々いた霊験あらたかな神を追い払って建国祖神という彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、玉依比賣命、神日本磐余彦尊(神武天皇)を祀り、地域開拓に功労のあった青海首命もともに祀られたというのでしょうか?
神社創建奉行であった吉備武彦が摂社として祀られている理由や、相殿の青海首命が知立神社の成りたちのカギを握っているような気がします。
知立神社はこの二人の功労があって創建されたものと仮定してみます。
吉備武彦が日本武尊東征の従者として、平定後の帰途別の道をたどってコシクニ(越前・越中・越後)に赴いていることはホツマツタヱにも記載があります。
ホツマツタヱ39あや
おいわけに きひたけひこ
こしちゆく くにさかしらを
みせしむる たけひはさきに
さかむより ゑみしのみやけ
もちのほり みかとにささけ
ことことく まつらふかたち
もふさしむ ひとりみゆきの
やまとたけ しなのきそちは
やまたかく (中略)
      かみのしらいぬ
みちひきて みのにいつれは
たけひこも こしよりかへり
ここにあふ

そして、木曽路を1人ゆく日本武尊と美濃で合流します。土岐あたりでしょうか。
日本武尊はこの後タケトメ(物部の祖・ウマシマチとは従兄。後に尾張系の養子に入る。孝霊天皇の臣)の孫の尾張連のところに行ってミヤズヒメと再会します。
尾張にタケトメの系統がやってきたのは孫のオトヨからだと言われています。
オトヨの父タケダオリの墓は大和葛木にあるようですから、オトヨがあゆちにやってきて尾張を開拓したと見られているわけです。オトヨは娘を日本武尊のキサキに仕立て尾張連として周囲に名を知らしめ他氏族を一歩先んじたのかもしれません。オトヨは系図がわかりにくく、ちょっと政略的な側面が見え隠れします。
知立のすぐ隣はオトヨの尾張氏が管轄していたのです。
西三河の古代史を紐解くと、遺跡や貝塚などから2万年ほど前から人類が住み、紀元前3世紀ごろに九州に渡来人がやってきてから後、稲作がはじまったのは、尾張地方よりも大きく遅れて弥生時代の中ごろといっています。
※ホツマツタヱに記述を見る限り、稲作は縄文時代からあるわけで、ニニキネが発明した灌漑農法を広めたという事や西の国(中国)の王母とシラヤマヒメの交流が描かれています。
知立は、明治時代には碧海郡(へきかいぐん)であり昭和45年に知立市となり郡を離れています。碧海の由来について『新撰姓氏録』には、「持統天皇の御代、参河国青海郡」と書かれているとWikiにありますが、由来は不明とのこと。社伝にあるように青海首命の一族が開拓していたことは間違いないでしょう。いぜれにせよ112年まで遡る記録は見当たらないようです。
ただ、越後に本拠地を持つ青海首一族はなぜ、いつこの地にやってきたのでしょう?
すくなくとも尾張氏よりは後のことと思われます。
一つの仮説としては、日本武尊は東征の往路でオトヨとの関係を緊密にし、帰途に青海首命との関係を築いたのでは?ということです。吉備武彦は東征の帰途に越し国を回り、その時に知り合ったのが青海首一族の支流で、吉備武彦と同行してやってきたとしたら、ヤマトタケとは美濃で合流したことになります。
もともと地域の視察も兼ねて戦勝祈願を立てた地である知立の連として青海首一族が選任された。吉備武彦と青海首一族は、尾張にはいかず知立を目指し、そして知立神社創建に尽力した。
 と。

知立神社の境内社を回ってみます。

親母神社(うばがみしゃ)229番目。
祭神 豊玉姫命
ハデツミの娘で、当時鹿児島にいた夫ホホデミが継子に選ばれたために上京します。それを妊婦の身で追いかけて遭難しながらも無事にウガヤフキアワセズを生み落としました。
豊玉姫の弟であるタケスミ(下鴨神社・賀茂建角身命)は姉とお腹の子を守りとおして都に送り届けました。
高千穂に天孫降臨の後、ニニキネは宮津に戻ります。ホホデミ―ウガヤフキアワセズ―カンヤマトイワレヒコの3代は九州に軸足を置いていたアマカミです。知立神社は、その時代の祖を祀る神社なのです。
青海首一族は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を祖としています。
シイネツヒコは豊玉姫の父ハテツミの曾孫ですから、海の民なのです。
海路に詳しく、大和朝廷建設に重要な役割を果たし、ヤマトのクニツコにまでなった人物なのです。青海首一族には、遠い故郷で尊崇したウガヤを中心とするアマカミ3代をここで祀りたいという気分が強いのは理解できます。

合祀社。230番目。
祭神 天照大御神と始めの十柱 とあります。
わかりませんが、初代アマカミ クニトコタチから神代7代と8代のアマテルカミ、9代オシホミミ、10代ニニキネの10柱のことでしょうか。
往路、日本武尊はどなたに国運の発展を祈願したのか?もともとこの10柱が祀られており、その神々に国運向上を祈願したとも考えられます。

小山天神社。231番目。
祭神 少名毘古那命。
なぜスクナヒコナノミコトが。
読み名を同じくする知里付神社(愛知県武豊町)の祭神も少彦名命なのですよね。そこでも天神さんと合祀となっています。
ひょっとしたら、スクナヒコナが「ちりふ」の名の由来ということもあるかも。
海から舟に乗ってやってきたというスクナヒコナは海岸沿いに多く祀られています。出生は古く、6代タカミムスビ・ヤソキネ=カミムスビの御子です。
同世代のオオナムチとチームを組んで各地を巡り病人を癒し、田畑から害虫・害鳥・害獣を払うなど民の平安に尽力しました。オオナムチがカシマタチで津軽に去ってからは、神代4代のウビチニ・スヒチニの時代に制定されたトツギノリの祀り、ひな祭りはその時代に由来を持っていますが、スクナヒコナはその物語を各地でして歩いたということです。


秋葉社。

秋葉社の階段の下をしつこく掘り返す鶏。
私が参拝しようとすると、ちょっと向こうへ行きましたが、下にみみずでもいたのでしょうか。
階段の途中にひび割れが見えます。地下からのストレスが強そうです。


「池鯉鮒」に因んで、鯉が水を吹いています。

多宝塔。
神社知立神社(愛知県知立市)
祭神 彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、玉依比賣命、神日本磐余彦尊(神武天皇)
相殿神 青海首命、聖徳太子