神社太田姫神社(一口稲荷)跡地 234番目。
小川町から歩いて行くと、あ、見覚えのある懐かしい街角だ。

そこには、太田道灌の娘である姫の神社が昔ありました。

由緒
山城国の一口(いもあらい)の里に「宇迦之御魂神」を祭神とした一口稲荷神社がありました。
このお稲荷様は本来、五穀の神(日々の糧となる五つの穀物の恵みを与えてくれる神)でありましたが、その上、穢(けがれや災い)も洗い清めてくれるということからも「えもあらい稲荷」と呼ばれ、近郷近在の人々の信仰を集めておりました。
 室町時代の末頃、関東一帯には天然痘が流行し、この地に在った太田持資(後に道灌)の姫もその病いに罹ってしまいました。
持資がこの噂を聞き及び、さっそく山城国に出向き「一口稲荷」に平癒を祈願したところ、姫は全快したと伝えられております。
後に寺社奉行でありました持資は、相模国の守護上杉定正の命により江戸城を築く時、その鬼門(鬼の出入りする方向、即ち東北、江戸城を基点とすると私たちの地がその方角になる)除けとして、太田家の姫を救った「一口稲荷」を移し奉りました。
長祿元年(1457年)の事であります。

神田大明神が鬼門を守ることでは有名ですが、太田姫神社も一役買っていたのですね。
関東大震災前、太田姫神社が遷宮する前は三井財閥の岩崎邸がすぐそばにあったようです。
神社神田神社(千代田区)235番地。
神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々の総氏神様
元祖下町、江戸っ子たちの血を受け継ぐ町々
老舗が集まる江戸の衣食住の文化を伝える町々
世界が注目する最先端のITの宝庫、またサブカルチャーの街々
日本を代表する大企業がひしめくビジネスマンの街々
旧神田市場(大田市場)・築地魚河岸市場という江戸東京人の食を支える続ける市場
「江戸」の象徴が集まる江戸の総氏神さまとして、今につづく尊崇をうける神社です。

どことなく下町っぽいいい雰囲気を醸し出しています。

親しみやすい感じ、というか。
手水舎回りも、ね。

一之宮は大己貴命。730年、出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されたそうです。

その後将門塚周辺で天変地異が頻発したのを、将門の祟りと恐れ1309年、僧によって慰霊し当社に奉祭されました。1600年天下分け目の関ヶ原で家康が合戦に臨む時に戦勝祈祷を行い見事に勝利を収めました。
1616年、江戸城の鬼門を守る今の場所に遷座し幕府の尊崇を受けて江戸の総鎮守となりました。

1872年に神田明神から神田神社に改められました。祭神に関しては、明治に入り1869年に大洗磯前神社から少彦名命を勧請した説と、1874年明治天皇が行幸される段になり、朝廷の逆族である将門を祀ることをはばかられて境内摂社なったかわりに少彦名命が勧請されたという説があります。

一之宮 大己貴命
二之宮 少彦名命
三之宮 平将門命
に落ち着いたのは1984年からという事になります。

『平将門魔法陣』なる加門七海氏の著作があります。曰く、江戸の風水師により平将門を調伏するために北斗七星の社寺で魔法陣をつくり封じたというものです。
魔法陣だという社寺は
鳥越神社 創建651年
兜神社  創建1878年 将門の兜を埋めた塚が元々あった?
将門首塚 1307年
神田神社 創建730年 将門合祀1309年
筑土八幡神社 
筑土神社 940年 京で晒された首が持ち込まれここに祀った
水稲荷神社 創建941年 調伏した 
鎧神社  創建940年 将門の鎧を埋めた
烏森神社 創建940年 将門討伐戦勝祈願
将門の父の領地は千葉県の佐倉市。将門は桓武天皇の五世孫。
平将門の乱に繋がっていく大元の原因は諸説あるようですが、相続争い、領地争いなど身内の争いではあったらしいのです。一族の大半を敵に回し、領民からの悪政への不満など在り結局940年に将門は茨城県坂東市の国王神社の場所で討死しました。その後京で獄門となり首が晒されていたそうです。
しかし、その怨念は「死して首を、胴体のある関東にまで飛ばしめる」伝説を生むほど強烈であったということでしょう。
菅原道真の件と同じように謀略によって戦うよう追い詰められていったとも考えられます。
陥れられた悔しさは死んでも死にきれないという事なのかもしれません。
また、そうした伝説の生んで将門を祀らしめ、自らの罪の闇に葬った人々が自分の犯した罪から逃れたかったのかもしれません。。。歴史は勝者が作るものですし、本当のところはわかりません。
いずれにせよ、念が相当に強いお方だったことは確かなようです。実際にかなり戦いも強かったのでしょうし、霊威も凄味があったことでしょう。10世紀末ごろ、将門に縁のある神社が東京にいくつか創建され、将門の浮かばれない霊を調伏したのだろうという説には確かに納得できます。
ただ、江戸時代を家康と築いたという風水師・天海大僧正との関係はどのようなものでしょうか。だって、家康の時代にはそれらの神社の痕跡はすでに存在していたのですから、創建時代と天海在世の時期は6世紀ほどズレていますしね。
そもそも家康―天海コンビが誕生したのはいつなのでしょう。
家康と天海のタッグが見事だったからこそ270年を江戸時代をつくり上げることができたことは確かなように思います。
1608年、駿府城にて天海は家康との初対面をします。すでに家康65歳、天海72歳。「天海僧正は 、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」・・・家康はこの出会いをこう言っています。
そして遅すぎた出会いからたった8年後1616年4月家康が亡くなります。
家康の死後、天海は引き続き将軍・秀忠の顧問役を務めました。徳川幕府を安泰に導くためには江戸城の方位学的な吉相が重要と考え、江戸城から見て鬼門の北東の方角に あたる上野山に、東叡山寛永寺を建立します。東叡山とは、東の比叡山の意味。比叡山が京都の鬼門の位置にあり、都を守護しているように、寛永寺に鬼門の守護を担わせました。さらに、琵琶湖弁財天に見立てた不忍池弁天堂、清水寺とシンクロする清水観音堂など、江戸に京の街が再現されました。これは比叡山の興隆を願う天海の意図でもあったのかもしれません。西の京と東の京に比叡山を置く。これこそが国家安泰の礎になる、と。
ある意味天海と家康は両翼だったのかもしれません。支えるべき胴体は「日本」です。
さて、「魔法陣」です。家康の死の1616年に、神田神社が江戸城の鬼門に遷座し江戸の総鎮守となったのは天海和尚の指示によるものでしょう。それまで神田明神は首塚の大手門にあったのですから、北斗七星の魔法陣は天海和尚の時代になってはじめて完成したということになります。なるほど。将門の身もだえするほどうっ屈したパワーを最大限活かすためのカギを天海が開けたのですね。あっぱれです。

こうして270年の江戸の栄華が築かれた一端が垣間見えました。
大僧正天海は天台宗の僧です。
天台宗の総本山は比叡山延暦寺です。比叡山の古い名を「ひのえやま」といいます。
江戸の「ひのえやま」は、皇居の南西、つまり裏鬼門を守る赤坂の日枝神社なのです。
日枝神社もまた江戸時代にとって重要なスポットであることは確かなようですね。
それにしても。。。
境内社がどこにあるのかわからず、
というか、境内社の影が頭に全くなくスルーしてきてしまいました。
いつもながらなんとも間抜けな。
また行かないとね。
神社太田姫神社(一口稲荷)跡地
神社神田神社(千代田区)
祭神 一之宮 大己貴命
   二之宮 少彦名命
   三之宮 平将門命