神社三内丸山遺跡(青森市)618番目

 

埋葬場あり、集会場あり、神殿ありという、神社の原型がここにあるという見方があります。

その意味で有益な情報も満載かと思われますね。

まさか自分の足で踏み入れるとは思ってもいなかったのですが、仲間たちとのツアーで実現しました。

こちら側からは出入り口が2か所あります。緩やかなスロープの降り口と

もう一方は階段で1メートルぐらい降りる感じで中に入ります。

柱はすべて地面に直接埋め込んでいます。

ここは、集会場・作業場・共同住宅というよりは神楽殿だったのでは?

というご意見も講師からでました。

裏側の出入り口は1か所です。

出口からおそらくは斎場であった巨大櫓が正面に見えます。

その出入り口を外から見たところです。

 

これ。上まで登ったらどこまで見渡せるのでしょうか。

 

この遺跡は紀元前3500年ぐらいから紀元前2000年ぐらいまで続いた集落だったということです。ホツマツタヱによると、オオナムチがカシマタチの後国替えし出雲から津軽に赴任し、大変な繁栄を築いたという記述があります。現在の岩木山神社には「顕国魂神」としてオオナムチが祀られています。きっとそちらで神上がりされたかお墓があったのでしょう。

 

もしここがオオナムチの作った村だと考えるとどうなんでしょう。オオナムチがこちらにやってきた年代が紀元前3500年ごろということになります。

もともとオオナムチは壮麗な建築物で威容を誇り「ひょっとしてタカマを脅かすや」と疑われてのカシマタチ(国譲り)だったのです。2000年に発見された出雲大社の本宮の復元模型も作られていますが、その高さは96メートルもしくは48メートルだということで、現代技術から考えても木造でその高さの建物は考えられないほど大きな建造物だったことがうかがわれます。

 

その技術力をもってすれば、三内丸山の大型掘っ建て建造物が大きいとはいえ簡単なものでしょう。ただ、タカマににらまれるという二の轍を踏むことはできなかったでしょうし、権力者というものを村に作ることなく運営されるよう行政を施したともみられます。過去の失敗から学んだのです。

 

この櫓の目的はいったい何なのか?

出雲に高い高い神殿を築いた理由に重なると考えるのが普通かなと思いますね。

とすると、そもそも出雲大社の由緒はどうなっているんでしょう。

 

以前の記事でも書いたように「出雲」の地名はソサノヲがタカマに復帰して名付けられました。

ホツマツタヱによればその時に宮を設け「クシイナダ」と言ったらしいのです。

その宮から出雲国は開発が始まったとみられます。それはどこなんでしょう?

須我神社が怪しいなと私としては思います。

 

出雲の地にいるソサノヲの暮らしぶりはあまり多くは伝わっていません。出雲国風土記の冒頭のお話だという「国引き神話」から想像するに、かなり積極的に国を大きくしようとする努力をしているようです。「朝鮮半島の余った土地」「北方の佐伎の国」「北方の良波の国」「能登半島の珠州の岬」という4か所を4回に分けて国引きしたということです。佐伎や良波がどの国のことなのか。とにかく活動的に日本の領土開発を推進したのですね。

そしてどうやら日御碕神社で神上がりされたようです。

その後オオナムチが頑張り、比類なき豊かな国と國民をつくりました。

富を蓄えると、オオナムチは天にも届くほどの社殿を築きます。

祭壇が西向きとすると、日の出る太陽を背負って神を祀るという形だったのでしょう。

 

天から神をお迎えするためか。

地上の穢れ喧騒を離れるためか。

太陽の軌道と関係があるのか。

星の位置と関係があるのか。

ピラミッドのような役割があるのか。

特定の磁場を得るためか。

 

あ、ひょっとして、大祓祝詞の中にヒントがあるかも。

 

おおやまとひたかみのくにを 

やすくにとしずめまつりて

したついわねにみやはしらふとしくたて 

たかまのはらにちぎたかしりて 

すめみまのみことのみずのみあらかにつかえまつりて

あめのみかげひのみかげと

ふかくましてやすくにとたいらけくしろしめす

 

東(ヒタカミ)の君といわれたトヨケ神の孫 アマテルカミに仕え

したついわねに宮柱太敷立て

高天原に千木高知りて

天の御蔭、日の御蔭をいただき深く坐して安国を定める

 

この様子を現実としたのが出雲の大社であったのかもしれません。

天・太陽の御蔭を頂くための千木高く、ということであったのでは。

もちろん順序としては逆であり、オオナムチの築いた立派なお社を祝詞に盛り込んだのがアマノコヤネということです。

 

 

 

三内丸山遺跡の櫓は角度的に出雲の方角に向いています。

ちょうど裏鬼門の西南の方向に出雲大社が位置します。

オオナムチ自らがソサノヲを継いで大きく育て上げた愛する出雲の地を

そのお社の威光をいや増すための櫓であったのでは・・・。

 

あくまで想像にすぎませんが、やはりオオナムチという方は国造りに命を懸けた神だったと思わずにはいられません。

 

三内丸山の縄文人は、このように漆塗りも得意でした。

 

このような麻の衣装を身に着けていました。

 

服や靴を縫うための様々な種類の針。

 

縄文土器は時には赤ちゃんを埋葬する壺にも使われました。

 

土偶は平たい板状に作られました。