家族がうまくいく神社浴のナビゲートをしています。

「神社浴と神社参拝とどう違うんですか?」

仕事などでこれまで参拝したことがない神社を通りかかるとお邪魔します。
そんな時に見かけるご近所の方々が参拝する姿。氏神様へ毎日の感謝に通っているご様子。

私もわずかな時間での参拝ですから皆さんと同じように参拝をします。見た感じは特に変わりはないでしょうね。目立つような変わった行動も特にしません。

でも、確実に違うことはあります。
祓い清める目的が明確にあるということです。

日本人は特にお風呂を愛好しますが、それは神々が行う”禊”の習慣があったからです。婚姻と同時に始まったミソギにより、身を祓い清めるために神々は水に浸かったのです。わたしたち日本人は毎日のようにお風呂に入り垢を落としますが、目に見えない心の垢も毎日落とすことが大事です。

「心にこびりついた汚れを落とし、祓い清める」という目的で参拝すること。
まずは鳥居で神域に入る時の消毒シャワーを浴びます。
次に手水舎で、両手と口を漱ぎます。
砂利の参道を歩いて泥を落とします。
拝殿でお賽銭とお鈴で穢れを落とします。

そのように明確に「祓い清める」ことを意識すると全身が祓い清めを受け入れる準備をはじめます。
すると全身から神社に充満する様々な周波数を吸収し始めるのです。

拝殿で手を合わせる時、現代語訳すれば「東西南北の神々、祓い、お清め下さい」といって、光の輝き具合、風の音、鳥の声、出現するものなどに注意を払います。そして深呼吸し、そこにある気を全身に浴びます。

深い悩みを抱えたまま無防備に神社に参拝しない方がいいわけ

神社に行くのはどんなときでしょう?
何か願いがある時ではないでしょうか。

「子どもが受験に成功しますように」
「親の病気が治りますように」
「この恋が実りますように」とか。
「私にどんな仕事があっているのか教えて神様!」ってこともあるかもしれません。

こんな風に神社で祈願祈祷をするわけは、人々の”欲望”を掻き集めるためです。
欲望は、行動するモチベーションになりますが、ゆきすぎると害になります。人々の欲望がゆきすぎないよう、つつがなく日常を過ごし生きる喜びを得られるように、というシステムが祈願祈祷です。

人々の欲望を集めて大祓い祝詞により吹き送りの儀式をします。
だから、人々の願いを叶える、というよりは人の欲を吹き消す役割として神社があります。だから「願いを叶えるために神社に行って祈願する」というのは神様から見たら「来たか。よしよし。そのごみ置いとけよ。処分したる。」というわけです。神様は、あなたの願いを叶えるというよりは、世の中が欲望だらけにならないようにそんな仕組みを作ったのですね。

そういう意味では神社は「欲望」の吹き溜まりといってもいいかも。(;^_^A
だから、神社に行くときは「祓い清めるぞ」という言葉と思いでバリアを作って行きましょう

細かい粒子のバリアで武装できれば、神社に限らずそこらに浮遊する粗くて重い他人の「欲望」がくっついてくることはありません。毎日祈願祈祷が行われていたり、掃除が行き届き氏子さんに愛されている神社であれば、外の社会にいるのとは全く異なる空気感をもっているのが感じられるでしょう。毎日毎日「欲望」が吹き送られ、祓い清められているからです。

「ピュアな気持ちで願えば叶う」でもピュアになるにはどうすれば?

「汚れっちまった大人のわたし。どうすればピュアになんてなれるのー( ;∀;)」という声があちらこちらから聞こえてきます。罪の意識をもっている人は世の中には多いんですね。

結婚してすぐのころテレビでMCが言っていた言葉が妙に心に引っ掛かりました。それは、

「正しさって何だろう?」という言葉。

意外にまじめな私は、正しさについて考えました。折しもバブルの絶頂期。不倫もお立ち台もアッシーもメッシーもお金ジャブジャブ何でもアリの倦んだ世の中に暮らしていました。何を基準に生きたら、まっすぐに目的地にたどり着けるのか。コンパスと地図が必要だと思ったのです。そこで出会たのが仏教でした。正しさを求めた私の目の前に、ブッダが菩提樹下で悟ったとされる八正道が忽然と現れたのです。

けれどもね。仏道とは修行の道です。それから11年後やっと講師免許皆伝となったのですよ。「正しい見方」「正しい思い」「正しい言葉」「正しい行い」「正しい暮らし」「正しい努力」「正しい願い」「正しいあり方」すべてにおいて正しさを身に付けたかったのです。正しさを「ピュア」と言い換えるならばなんて時間のかかること・・・。修行に次ぐ修行だったのですが、けれど私は見つけてしまいました。

ピュアになるには時間は必要ない。
修行すら必要ないということを。

だって、ピュアな自分、正しい自分というのは本来の自分なんですから。元々持っている自分の根源に立ち返るのに、時間や修業や信仰心が必要でしょうか?人は自分の体に「お宮」をもっているんですよ。女性には「子宮」が。男性には「第三の目」が。「信じる!」とことさらに言わなくても、自分の中に神が宿ることを知っているんです。

八正道に助けられた私の結論、ピュアな自分になるたった一つの方法は「五感を研ぎ澄ませて自分の声に耳を傾ける事」以外にはないのです。

ただ、わたしには八正道が必要だったのです。「正しい自分に出会うには修行が必要だ」と考えていたからです。修行しないでただ他力本願で手に入れるなんて邪道だと考えていたからです。「キレイで楽な道は地獄につながっている」と言いますしね。けれど、本当は修行が必要なわけではなく、「智恵」が必要なだけなのでした。智恵というのは知識とは違って行動しなければないに等しいものです。だから人は「経験」したがるのです。

例えば「愛」がいいものだとはみんな知っているでしょうが、本来「愛」とは「愛する」という動詞です。行動しなければ意味がないですよね。

こんなことわざがあります。「親の言葉はナスの花より無駄がない」
ナスは花に必ず実がつくので、それよりも無駄がないのは親のアドバイスだよ、という意味です。わたしも親に言われた言葉です。でも、こどもは言います。「そんなこと、やってみなきゃわからない。」

世の中には賢い人もいるようで、やってみなくてもわかっちゃう人、いるんですね。
だから、必ずしも修業(苦労)は必要ないと考えています。私自身が長年の修行を積んだからこその実感です。別の道があるのです。

 

修行というのではない別の道、それが神社浴で徹底的に五感を敏感に使うことです

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