天武天皇社(桑名市)274番目。
今回は桑名市の式内社を巡りました。
まずは天武天皇ゆかりの神社から。
東海道53次のうちの42番目が桑名宿です。
南に下れば伊勢へ、北に上れば美濃地方を抜けて日本海へ、東に川を渡れば尾張へ、西は大津に繋がるという土地。
祭神 天武天皇 持統天皇 高市皇子
壬申の乱に天武天皇、皇后と共に吉野より潜幸され桑名郡家に御宿泊された深き由縁により創立した。明治天皇御東幸の際、当社のことを聞き召されお祀りするようになった、と由緒にあります。
天武天皇を主祭神とする全国唯一の神社と書いてあります。
壬申の乱の前夜、東宮でありながら継子を辞退し吉野で剃髪した大海人皇子(天武天皇)は、天智天皇崩御のあと身の危険を感じて東に向かいます。※挙兵のためという説もあり。
吉野から伊賀を超えて桑名に宿をとったのが三日後、そして翌日には同行していた鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ※後の持統天皇)を桑名に残したまま美濃に向かい尾張・美濃の豪族を集めて挙兵し、壬申の乱が勃発します。
そもそも、天武天皇はその出生がよくわからないと言われています。
大化の改新の際や白村江の戦いにはその名が全く登場しないのはおかしな話だとか、本当は天智天皇よりも年上のはずだとか。
「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名らしいということ。凡海氏は阿曇氏の同族とされ、摂津を本拠地として海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、ほかにも周防・長門・尾張など各地に居住したらしい。凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたものというのが通説で、天武天皇13年(684年)12月に連姓の50氏が宿禰の姓を授けられたとき、凡海氏もこの時に連から宿禰になったと見られているということです。
天武天皇の生誕年は不詳であり、母は斉明天皇という事ですが真実はどうなのでしょう?
育てられたのが凡海氏であるなら、外戚と見ていいような気もします。
その意味で尾張や美濃にいる海部一族の決起となっても何ら不思議はありません。
天武天皇は藤原京を造営し、『日本書紀』と『古事記』を編纂を始めました。
日本の律令制を定着させるなど、在位13年間で多くのことを為しました。
その後を妻である持統天皇が41代天皇を引き継ぎいだのですが、持統天皇は天武天皇の子たちに皇位を譲りませんでした。そして49代光仁天皇、50代桓武天皇で天智天皇の血筋に戻っていきました。
持統天皇の強い意志を感じます。
実はつい最近、いまも持統天皇を怨む神社関係者の声があると人づてに聞きました。
持統天皇が天武天皇から引き継いだ神社の改革は、とにかく徹底して行われたという事。
その改革のために様々な怨念が今でも続いているという事に少々驚いてしまったのですが。
ともあれ、結局天武天皇の系統は短命に終わりました。旧皇族の竹田氏によると天武天皇の起こした「この壬申の乱だけが、反乱を起こした人物が皇位を手に入れた唯一の反乱」 であり皇位簒奪に成功した唯一の例だとしています。
持統天皇はそれまであった歴史書を焚書し、その天武天皇の意向が反映しているであろう『日本書紀』『古事記』が日本最初の国史となったというわけです。
正一位稲荷(天武天皇社境内)
稲荷神社の隣のお社は扉が半分開いていました。
マフツの鏡が据えられ、うずたかい盛り塩とお酒が供えてあります。
隣には二体の木彫像が。
お堂のようでもあります。
天武天皇社(桑名市)
祭神 祭神 天武天皇 持統天皇 高市皇子
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