玉鉾神社(愛知県武豊町)192~198 孝明天皇とニギハヤヒ、初代アマカミ国常立尊

最終更新日2016年6月4日
神社玉鉾神社。192番目。
武雄神社に参拝後変わった名の神社を見つけてお参りしました。

細い道を奥へ奥へと入りやっと辿りつくその場所は、そこを目指してわざわざ行かないと見つけられない場所にあります。都会的に整備されているとは言えないけれども、お山のあちこちに神さまがいらしてなんだか神さまのコテージ的に整備されています。
手水舎は「黄金の泉」。

拝殿で参拝を始めると、どこからともなく笛の音が流れてきました。
なので拝殿周辺は動画にとりました。UPする機会が来ればいいけど・・・
祭神は第121代孝明天皇です。

平安京最後の天皇であり、尊王攘夷を貫いた明治天皇のお父上です。36歳の若さで崩御されています。
参拝当時は露ほども知らなかったのですが、宮中祭祀は明治天皇からがらっと変わったそうです。
それまで平安期から長きにわたって宮中祭祀を行った白川の道は、外部からの迫害・焚書を恐れて孝明天皇に密かに逃されたそうです。白川神道の一子相伝の血筋は昭和期にとだえてしまいます。血筋は途絶えても弟子筋が続き、なんとか秘儀もろとも今に伝えられて白河学館として多くの門弟を育てられています。
2011年に参拝された方の記録にはない以下の立て札。

祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)
    さくや姫 改神みろくかぐや姫命 とあります。
なぜ、ニギハヤヒ?
そのあたりのことは良くわかりません。出口王仁三郎と関係が深い神社のようです。
その左隣の鳥居も2011年の写真には写っていません。
金色の鳥居は始めてみました。

別宮 三六宮 とあります。193番目。

玉置神代杉大神 艮の金神 坤の金神
艮の金神とありますので、大本関係でしょうか?
そういう印象があるのですが、「大本」に関しても「艮の金神」についても”聞いたことがある”程度の知識しかない私です。ちょっと調べると、艮の金神とは「鬼門に巡る祟り神」で、大本の教祖になる57歳の出口なおに神がかりした神さまということです。
これがどのような神さまなのかは1892年当時はわからなかったようです。
将来の婿となる王仁三郎がサニワとして関わり、艮の金神は国常立尊であることが判明したということです。また裏鬼門に当たる坤の金神は豊雲野大神で、クニトコタチの妻とされています。
玉置神代杉とは、熊野三山の奥宮である玉置神社境内の樹齢3,000年とも言われる杉の大神を勧請したものです。玉置神社はアスカ宮に伝わる十種神器のなかの「玉」を安置していると伝わります。祭神は国常立尊です。

下の方には勧請した12柱の神さまが並べられています。
クニトコタチがなぜ鬼門の祟り神なのでしょう。
大変に厳しい神であるので封印されたという話もあります。
ホツマツタヱにはどのように表現されているのでしょう。
ホツマツタヱ2あや
くにとこたちの とこよくに
やもやくたりの みこうみて
みなこのくにお をさめしむ
これくにきみの はしめなり

トコヨクニのアマカミ初代クニトコタチが誕生し、八つの地域に御子が派遣されました。これがクニ君(くにのみやつこ)の起こりです。
アマテルカミの祖父であるヒタカミの君トヨケ神は、死ぬ前に臣たちにクニトコタチの言葉として伝えています。8代アマカミ・アマテルカミは「幾世の御祖」であると。
ホツマツタヱ6あや
むかしみちのく つくさねは
ここにまつとて さつけまし
もろかんたちも しかときけ
きみはいくよの みおやなり
これとこたちの ことのりと
ほらをとさして かくれます

ホツマツタヱ33あや
みことのり みおやのさつく
みくさもの くにとこたち
かんをして あまてるかみは
やたかかみ おおくにたまは
やゑがきと つねにまつりて
みとかみと きわとほからず
とのゆかも うつわもともに
すみきたる

ミクサモノ(三種神器)について書かれています。
カンヲシテ(トノヲシテ。神の教え)はクニトコタチが発布し、
ヤタカガミはアマテルカミがカンタカラに加えました。
ヤヱカキ(幾重にもわたる抑止力。ホコの力)はオオクニタマが守ります。
崇神天皇はミクサモノが十全に守られていないとして新たにカガミをイシコリトメの孫に、剣をアメヒトカミの孫に造らせ新調し、カガミはカサヌヒにてトヨスキヒメに、オオクニタマはヤマヘノサトにてヌナギヒメに分けて祀らせます。
クニトコタチはカンヲシテによって建国した初代アマカミであり、ホツマツタヱには多数登場しますが、常に尊敬を持って語られるのです。
鬼門の祟り神となるような理由があるとすれば、ホツマツタヱの時代よりは後の事なのでしょう。

ハイパフォーマンスな大黒天ですね。
その右側。

幣良受天神社。194番目。祭神 幣良受大神 菅原道真公。
幣良受大神の詳細は不明です。

その奥に

幣良受の池。こんこんと湧き出る知恵の泉ってところでしょうか。少しづつ水量が増えているという噂。
こちらは、辯財天社。195番目。

祭神は宗像大神他。財福と美の神さまで、龍神を使いとしていることが記されています。

御柱大神社。196番目。

御柱大神とは風の神さまのことでしょうか。シナトヘとしてホツマツタヱに名が出てきます。
ホツマツタヱ8あや
やつことせんと なりめくる
はたたかみなり いふきとは
うつろゐまねき これおけす
むらくもおおひ くらませは
しなとおまねき ふきはらふ
ほのほおはきて むろやけは
たつためまねき これおけす

六ハタレの争乱の際、イブキドヌシは第六のハタレ、アメヱノミチに対してウツロヰ、シナトへ、タツタメという自然神を招いて戦っています。

鳥居の柱の近くに北斗七星を模った玉が。

この後、境内の左の小高い場所に参ります。

昇龍大明神社。197番目。


朝日稲荷社。198番目。



今も孝明天皇の内覧として政務を補佐した九条家も参拝に訪れるのだそうです。
時代の逆風に晒され翻弄されても意志を頑として曲げることが無かった天皇が正式に祀られるのは平安神宮とここだけだという事です。
祭神の1柱にニギハヤヒが鎮座しますが、
どういう由緒があるんでしょうか。
ニギハヤヒは天孫ホノアカリが立てたアスカ宮の最後の宮様です。神武東征の際に投降してアスカ宮は統合され、その子孫はモノノヘとして生き延びます。ニギハヤヒの重臣であるナガスネヒコが横暴な振る舞いで神武東征の呼び込んでしまった張本人です。ですが、ナガスネヒコのヨツギフミ盗み写しがなければ、神武はヤマトに進出せず、ヤマト政権の樹立は成っていなかったかもしれません。新たな時代精神を生む時に、このような大きな抵抗勢力を必要とするのかもしれません。
孝明天皇も明治維新という新しい時代を産み出すための「痛み」となったという点でニギハヤヒ&ナガスネヒコとの共通点を見出せます。
出口王仁三郎という方は『霊界物語』を著しています。その内容は神代のお話のようでありながら現代の予言的要素をもっているといいます。地球全土、宇宙を舞台にした壮大な物語です。
口述で著したそうで、おそらくは見えない世界を観る力がおありだったのでしょう。
孝明天皇の魂がニギハヤヒやナガスネヒコと繋がっているのを見通したのかもしれません。
神社玉鉾神社(愛知県武豊町)
祭神 孝明天皇
神社三六宮(玉鉾神社境内社)
祭神 玉置神代杉大神
神社幣良受天神社(玉鉾神社境内社)
祭神 幣良受大神 菅原道真公
神社辯財天社(玉鉾神社境内社)
祭神 宗像大神他
神社御柱大神社(玉鉾神社境内社)
祭神 御柱大神
神社昇龍大明神社(玉鉾神社境内社)
祭神 昇龍大明神
神社朝日稲荷社(玉鉾神社境内社)
祭神 不詳
追記
かごめ宮中でとり行う神事作法や口伝を集大成し伝承したのが伯家神道神祇伯・白川家です。第65代花山天皇から出た家柄で、明治に入るまで代々世襲した名門なのですが、鎌倉時代から制度が乱れ、儒教や仏教の影響を受けた神道家によって白川家が有し続けた全国神社の統括する権利の大半を失いました。復活し始めたのは江戸時代に入ってからでした。
『神祇伯家学則』による神道の大要は、「神道というものは古今通じて変わらない根本原則であり、いずれに国においても通用する大道であり、神道と武道は一つであり、身を清め、家を整え、国治めると言ったことの要領も皇典を研鑽するうちにわかる」とされています。
その白川神道の血筋は1961年ついに途絶えます。
幕末の混乱期に、伯家神道の伝統が途絶えぬよう高濱清七郎に京都を離れるよう指示した孝明天皇のその思いは、高濱家の血脈を通して受け継がれ、七沢氏へと伝えられたのだ。
高濱浩氏は七沢氏にこう言い残したといいます。
「決して宗教団体は作らぬこと。そして、この甲府の地で100年でも200年でも『おみち』(伯家神道)を守ってください。私は死んでからも、向こうからいつもあなたを助けます」

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