籠守勝手神社(愛知県一宮市)402番目
コモリカツテ神社という名は変わっていますが、京都長岡京市にも見られます。
ご祭神は異なるのですが。
Wikiより
式内社の尾張国葉栗郡「黒田神社」という。籠守勝手神社は黒田神社の古くからの通称であった。正式に籠守勝手神社と改称したのは明治時代初期である。
億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が雄略天皇から逃れるさい、ここに宿泊したと伝えられ、これを後世に伝えるために行なわれているのが御駕籠祭(おこもりまつり)である。厄払い、豊年を祈願する祭であり、1500年以上の歴史がある。
かつては、神社に勝手に籠もり心より願をかけると、必ず成就するといわれていた
「コモリ」と聞くとオオナムチの孫の三代目オオモノヌシのコモリさんを想起します。
18男18女を産み分ける知識をもっていて子育てしたというので「子守神」を賜ったのです。
「カツテ」とはオオナムチの甥に当たる葛木の産婦人科医です。
「コモリ」「カツテ」のつながりはどこかにあるのでしょうか。
ホツマツタヱ10あや
かつきまろ いみなやすひこ
みほひこと こことむすひの
つたゑうけ みうちにおれは
ををんかみ をしてたまわる
かつてかみ
この記述はやすひこ(カツテ)みほひこ(コモリ)は共にココトムスビから「タマガエシ」を伝授されていることが記されています。
「タマガエシ」とは乱れた霊の緒を解き、迷える魂・魄を天地の宮に返すことといいます。
罪を犯し穢れたものが一旦死んだあと、再び真人間として生まれ変わらせる秘法のようです。
生まれてくる子供は五体満足で健康であるようにと強く願う気持ちが「こもりかつて」神社にはこめられていると感じます。
小ぶりながらも端正な社殿ですね。
祭神 瀬織津比咩命
淀比咩命(神宮皇后の妹?姉?)
「こもりかつて」と名づく神社で、相当な古社でもあります。
江戸時代に呼ばれていた黒田神社とは、16世紀に当社を再建したのが黒田城城主であり地名をとったもののようです。「こもりかつて」神社のご祭神の由来は淀比咩命が鍵を握っている気がします。
広島県福山市に沼名前神社があります。
神功皇后が三韓征伐のため瀬戸内海を進み、鞆の浦の地に寄泊し帰路も当地に寄泊しました。皇后が携帯していた「鞆(とも)」を奉納し大綿津見命を祀った際に、妹の淀媛命を祭主として奉任しました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源だとされています。
その後、淀媛命は現地を去ったのですが、福山には淀媛命を氏神様として祀る淀姫神社もあります。淀媛命の能力を買われていろいろな場所に赴いたならこの籠守勝手神社の祭主であった可能性はあるんじゃないでしょうか。
京都の子守勝手神社の「カツテ」の方のご祭神にオシホミミがいます。オシホミミの母はセオリツヒメなのです。なんでかなーーー。
ひょっとしたら、淀媛命が来るよりもっと古くから地元で祀られていた「コモリ神」「カツテ神」の社が当社で、そこへ淀媛命がやってきたのかも。。。
そこでお祀りしたのが、伊勢の荒御霊であり祓戸大神の1柱である瀬織津比咩命であった。。。
もうひとつの子守勝手神社には御子のオシホミミ。
籠守勝手神社ー子守勝手神社ー伊勢とを結ぶと150キロ超えの正三角形に近い形になります。
そこに何らかのご神託なり意図があったようにも感じられます。
境内社です。403番目。
天照皇大御神社
熱田社
大山祇社
大規模な神社改革が行われるのは、天武―持統天皇のころです。
このころ古事記や日本書紀、風土記なども編纂されたのです。
淀媛命が活躍されたのは、それから5、600年もまえの時代ですが、当時にも祭神変更はあったということなのかもしれません。それとも逆に600年ほど後にやってくる神社改革によって社号が変更されたのか。。。
現代でも木造神社の火事などが頻繁に起きておりますが、神社に残る神社史などが消失することの方が多く、延喜式内に名が残る神社でさえ創建がわからない神社の方がむしろ多いのではないでしょうか。
神代の縄文時代からこれまで連綿と続いたDNAはキチンと繋いで行きたいとおもいます。
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