十五社神社(岐阜県山県市)
建国の神であるクニトコタチ、二代クニサツチ、三代トヨクンヌ・・・
こうした神々を祀る神社は案外少なくて、以前の検索でここに鎮座すると知り、ぜひ参拝したいと思っていた神社です。
年季の入った社標です。
到着した駐車場にすぐに由緒がありました。
金弊社ってなんでしょう?
はじめて聞きました。調べてみると、どうやら岐阜県だけの社格を表わしており、最上格が金弊社だということでした。
十五社神社。655番目。
祭神
天之常立尊
国常立尊
国狹槌尊
豊斟渟尊
埿土煮尊・沙土煮尊
大戸之道尊・大苫辺尊
面足尊・惶根尊
伊弉諾尊・伊弉冊尊(以上神代7代)
天照皇大紳
天忍穂耳尊
瓊々杵尊
彦火々出見尊
鵜草葺不合尊(以上地神5代)
神日本磐余彦尊
若帯彦尊・応神天皇
右側のお社。中央に天之常立尊が鎮座するとしたら、こちらのご祭神は神代7代と地神5代なのかもしれません。656番目。
左側のお社です。伏見稲荷風に分けるならば北座で、神日本磐余彦尊と応神天皇かもしれません。657番目。
社伝には、淳和天皇の御代、826年5月、晴天にわかに雲起こり、寒気極め、雷鳴天に響き、地震い、雹激しく降り、里人は驚き、天の神に祈り奉りました。翌朝、官山の唐松山の山頂より「我は、天之常立尊、国常立尊、国狹槌尊、豊斟渟尊、埿土煮尊・沙土煮尊、大戸之道尊・大苫辺尊、面足尊・惶根尊、伊弉諾尊・伊弉冊尊、天照皇大紳、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜草葺不合尊である、この地に現れたのは、広く国内を守るためである。里人達、この麓に神様を祭り拝むように。」との神のお告げがありました。里人は急ぎ朝廷に請願し、美濃権守春原朝臣五百枝が社殿を建て、9月19日に「天神大明神」と称えて鎮祭したと伝えられています。
後に、この地方に大和民族と秦氏との姓氏の争いがおこり、「盟神探湯」の神事を以て真意を伺う信仰がおこり「裁主大明神」と改称し奉られました。美濃国神名帳には「正四以下裁主明神」と記載されている古社で神事用の大釜が所蔵されています。
鎌倉時代、新羅三郎義光から七代逸見又太郎義重氏は承久の乱の勲功により、後鳥羽上皇より大桑郷を賜り、当社を改築し崇敬しました。お手植えの逸見杉が今も遺っています。
戦国時代、大桑に本拠を移した美濃守護大名土岐頼芸は、当社を崇敬し、本殿を改築して、源氏の氏神として知られる石清水八幡宮を勧請し、相殿に合祀して「十五社大権現」と改称し奉りました。そこで加藤興三右衛門を神主として祭祀に当たらせ、土岐氏の氏神として篤く崇敬しました。
江戸時代に至り、1701年徳川綱吉は、代官辻六朗右衛門守参に社殿造営係を命じ、本殿(現存)を改築し奉りました。1812年従三位岩倉具選は、朝廷の許しを得て「十五社大神宮」と改称し、皇室の安泰を祈願しました。明治維新後「十五社神社」と改称し、明治五年に村社、明治19年に郷社、昭和54年に金弊社に指定されました。
以上がパンフレットに書かれている由緒です。
社紋は十六菊になっています。
祭神の中で由緒に触れられていないのは神日本磐余彦尊なのですが、「大和民族と秦氏との姓氏の争いがおこり」とありますので、大和民族が勝利し祀ったと考えられます。
後に、石清水八幡宮が勧請されるとは因縁が深い。
由緒にも名がある加藤神主は現在まで引き継がれ代々神主さんを務めているそうです。
1701年に改築されたという本殿です。
その右。
忠魂神社。658番目。
そのまた右側。
不明。659番目
ですが、岐阜県のHPによると摂社末社として
須佐之男命(すさのおのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
手力男命(たぢからおのみこと)
豊受姫命(とようけびめのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
が祀られているとあります。
さて、境内を巡ります。
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